使徒9:36~43 いやす賜物


 医療技術が進んだ今、いやしが必要な人が逆に増えています。現代こそ、いやす人が求められています。

1、広い意味での<いやしの賜物>

 第1コリント12:9~10に、「ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇跡を行う力」が与えられていると書いてあります。いやしの賜物を与えられた人は、神のいやしの力を届ける管のように用いられます。

 奇跡的ないやしの力がなくても、広い意味でのいやしの賜物を与えられているかもしれません。以下の項目に該当するかを確認して下さい。

・主の力によって病気を治す力が与えられている
・病人のためにとりなしの祈りをする
・自分自身が体や心の病気を経験者した
・仕事やプライベートで、実際に誰かを看病したりケアしている
・人の話をゆっくりと聞くことができる
・「あなたは、いやし系だね」と言われたことがある

広い意味でいやしの賜物をもらっている人は、自然に以下のように行動します。
弱った人のそばにいてあげる。手を置く。抱きしめる。話を聞く。食べ物を出す。リラックスした雰囲気にしてあげる。信頼する。代わりに仕事をしたり、車を運転したりする。見捨てない。慰め、励ます。愚痴を聞いてあげる。あきらめない。共に喜ぶ。

広い意味でのいやしの賜物は、目立たない人に与えられている場合が多いです。パウロは、目立つ賜物と目立たない賜物に触れ、キリストの体の中では目立たない器官、弱いと見られる器官がとても重要だと言ったのは、こうした<広い意味でのいやしの賜物>の必要性を述べたのかもしれません。

からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。(第1コリント12:22)


2、タビタ

 今日の聖書箇所では、いやしの賜物を与えられたペテロと、広い意味で<いやしの賜物>を与えられたタビタの姿を見ることができます。

ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、「すぐに来てください。」と頼んだ。(使徒9:36~38)

 海沿いの町ヨッパにタビタという女性のクリスチャンがいましたが、病気で亡くなりました。主イエスが復活され昇天された後なので、人々はペテロを呼びに行きました。葬式をしてほしかったのでしょうか。

そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。(39節)

 すぐに来て欲しかったのは、葬式のためではなかったようです。すでに遺体は洗いきよられて安置していましたが、葬式が始まる雰囲気がありません。やもめたちは、言葉では言いませんが、タビタを生き返らせて欲しいと全身でペテロに語っていました。

 あなたが死んだとします。家族や親戚以外で、誰が飛んで来てくれますか。大粒の涙をはらはら流して、生き返らせてほしいと懇願する人がいるでしょうか。
 「やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。」(39節)とあります。あなたが死んだら、あなたが誰かに与えたものを取り出して来て、これはあの人からもらったものだ、あの人は私にこんなに良くしてくれたと言ってくれるでしょうか。

 「この女は、多くの良いわざと施しをしていた」(36節)とあります。タビタは、与える人でした。広い意味でのいやしの賜物は、与える賜物と言い換えても良いでしょう。タビタはやもめたちのために、時間を与え、お金を与え、物を与え、心を与えたと言ってもよいでしょう。

ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい。」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。(40~42節)

 まったくの異例な事ですが、ペテロは皆をその場から出して一人になってひざまずき、タビタを生き返らせてほしいと主に祈りました。主イエスが会堂管理者の娘を生き返らせた場面とそっくりの言い回しで(マルコ5:41)、タビタ、起きなさいと呼びかけました。
タビタは目を開けました。なぜペテロがいるのか驚いたでしょう。タビタと再開したやもめたちは大歓声をあげ、主を礼拝し、お祝いの食事の席になったことでしょう。

やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。(39節)

つい最近、ハワイから電話がありました。最初、私は知らない人だと思いました。話を聞いていくと、彼女の母親がつい最近亡くなったこと、そのお母さんが私が牧師をしていた教会の教会員だったこと、彼女が死んだ時には平湯牧師に連絡してほしいと頼んだことが分かりました。その年配の女性は、私が苦しい時に、山を越えて運転して来て、私を励ますために、おいしいパンを買って届けてくれた人でした。それも一度ではなく、三度も四度も届けてくれたのです。私は、彼女の行動によって、いやされました。慰めを受けました。その方が、私のことをずっと何年も忘れず、祈ってくれたのだと改めて知り、深い感動と悲しみを覚えました。ヨッパのやもめたちのように、私も、彼女にもらったパンを見せながら、彼女の思いやりを知ってほしいと思いました。

あなたは普段目立たない人かもしれませんが、現代のタビタです。神はあなたを<いやす人>として造られたのかもしれません。あなたの時間を、物を、聞く耳を、愛を、サポートを、あなた自身を、誰かのために与え、その人のいやしを願いましょう。

→あなたの番です
 □広い意味で、いやしの賜物をもらっていませんか
□病気の人、弱っている人のそばに行きましょう
□良いわざ、施しを、あなたらしく実行しましょう