ヨブ記


 正しい者がなぜ苦しむのか。これはヨブ記の中心テーマです。
  
1、ヨブを襲った災難

 ヨブ記の著者は不明です。預言者エゼキエルがヨブを知っていたので(エゼキエル14:14~15)、ヨブは少なくとも紀元前570年より古い人でしょう。律法の記述がなく、いけにえの方法が自由である点、ヨブの年齢(ヨブ記42:16)を考慮すると、アブラハムと同じ頃の人という推察も可能です。

ヨブは、正しく歩む敬虔な信仰者で(ヨブ記1:1)、財産に恵まれ、10人の子供がいて(1:2~3)、幸せに暮らしていました。ある日災難が襲い、子供全員が死亡、財産も全部失いました。(1:13~19)それでも、ヨブは主を礼拝しました。

そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(1:21)

すぐに、ヨブはひどい皮膚病にかかり、誰だか分からないほど醜く腫れ上がりました。(2:7)そこに親友の3人がやって来て慰めようとしましたが、ヨブの悲惨な状態を目にして言葉を失い何日も座り込みました。(2:11~13)やがてヨブは口を開き、「私の生まれた日は滅びうせよ」(3:1)、生まれなければ良かったと強い勢いで語りました。

あなたもヨブと同じような経験をしたかもしれません。普通に生きて来た私が、なぜこんな目に遭わないといけないのか。どうして私なのかと。

私の父は、自宅の階段から落ちて首を骨折、手術を受けました。県内に国立リハビリテーションセンターがあったので、そこで数か月入所して、リハビリと自立訓練を受けました。父は、後で私にこう語ってくれました。「あそこに行けて良かった。俺だけがひどい怪我をしたと人生を嘆いたいたけど、俺より何倍もひどい怪我や障害を負った人や中途失明した人と話せて励まされたよ」


2、友人の言葉

 人生を呪うヨブの強烈な言葉を聞いて、親友のエリファズはヨブの痛みを背負い切れなくなりました。それで、エリファズはヨブの災難の原因追及を始めました。まるで、悪質な新興宗教のように、今回の災難の原因はあなたにあると断じました。これは因果応報の論理です。

 さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。(4:7)

ヨブに罪があったから災難が来たのだ、だから罪を悔い改めよとエリファズは迫りました。ヨブの3人の友人、エリファズ、ビルダデ、ツォファルは同じ内容を代わる代わる言いました。罪を悔い改めよと責めました。これが4章から31章まで続いています。

 ヨブは悪いことをしていません。むしろ神を恐れ正しく歩む良い人でした。ヨブは友達の言葉を聞いて落ち込みました。「落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう。」(6:14)とヨブは訴えました。「私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。」(9:33)と述べ、神と人の間に立つ救い主を待ち焦がれました。議論が行き詰る中で、「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」(19:25)と語り、ヨブは救い主の到来を確信しました。ヨブが待ち望んだのは、救い主イエスだったのです。

 ヨブのような災難や試練の中にいる人がいたなら、ヨブの友人にならないように気をつけましょう。原因追及よりも真の友情が必要です、ヨブの悲しみに寄り添う事が大切です。
 この辺で、ヨブの友人達の理屈とヨブの考え方を比較してみましょう。

 ・罪を犯したから災いが来る。(ヨブの友人達の理屈)
 ・正しく生きているから災いに遭うはずはない(ヨブの考え方)

 注意して比べて下さい。ヨブの友人もヨブも、実は同じ考え方なのです。表か裏かの違いで本質は同じです。
 私たちはこの因果応報、努力―結果、という枠組みから離れられないのです。ヨブは、因果応報の論理を神に突きつけ、神を糾弾していました。

正しく生きれば災いが来ないはずだ、という問いに対して、ヨブ記は何も答えていません。神は、因果応報論理の外におられると聖書は語っているようです。
 ヨブの災難とヨブの言葉を神が無視しておられたのではありません。むしろ苦しむ人の言葉を最初から最後まで耳を傾けておられたのです。ヨブの友達が最初の7日間にしてくれたことを、ずっと続けているということです。私たちも、災難や別離や喪失で苦しみ、友人の無理解や態度によってさらに傷つけらます。けれども、神は一番近くにいて、私たちに寄り添っていてくれるのです。


3、神との出会い

 ヨブは友人の追及に逆上し、27~31章において、自分の正しさは完璧であるかのように語りました。ヨブにとって、神とは「私のたましいを苦しめた全能者」(27:2)となりました。「私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない。」(27:5)とヨブは意地を張りました。私の皮膚は黒ずみ、みんなに笑われ無視されている(30章)と感じました。

 黙って聞いていた若いエリフが急に割り込んだのが32~37章です。エリフの主張は基本的には他の友人と同じですが、神が苦しみの中で教師のように導かれる(36:22)と語り、「神の奇しいみわざを、じっと考えよ。あなたは知っているか。神がどのようにこれらに命じ、その雲にいなずまをひらめかせるかを。」(37:14~15)と語り、神が語る道備えをしました。

 ついに神はヨブに直接語られました。

主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。
知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
(38:1~4)

正しい者がなぜ苦しむのか、という問いに主は回答されませんでした。その代わり、ヨブが何も分かっていないと指摘されました。神についての知識がないまま、因果応報の理論を振りかざし、自分の正当性を主張し、結果としては、神の摂理を暗くしていると言われました。
「摂理」とは、NIVでmy plansと訳され、神の深いお考え、愛に根ざした配慮、私たちのためになる計画なのだと分かります。

38章から42章で神は自然を見よ、動物を注意深く見よ、とヨブに言われました。海や雲や朝日やオリオン座や雨の事を考えて、誰が造ったのかを心を低くして考えなさいと言われました。(38~39章)

 ヨブは、自分の正しさを主張したいがために、神を悪者にしたことに気づきました。

 ヨブは主に答えて言った。ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません。
主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。(40:3~8)

 ヨブの友人は間違っていると主は明言されました。「わたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようでなかった」(42:7)ヨブが友人のために祈ると、主はかつての二倍の祝福を与えて下さいました。(42:10~12)

 聖書は、求めよさらば与えられんと人生の上り坂を応援してくれます。逆に、体力が衰え、責任ある立場から降り、人の世話になり、大切なものを失う、いわば、下り坂の経験の時に、ヨブ記は私たちを慰めてくれます。


→あなたの番です
□正しく生きても、失う時がある
□因果応報の論理を振りかざさない
□私たちは、神についてほとんど何も知らない
□主は、与える方であり、取られる方である
□神は、人の悲しみや苦しみに寄り添っておられる
□主には最善の計画(摂理)がある

見よ。これらはただ神の道の外側にすぎない。私たちはただ、神についてのささやきしか聞いていない。だれが、その力ある雷を聞き分けえようか。(26:14)