マタイ8:14~22  見せる、鍛える

 主イエスは、ご自分のありのままの姿を弟子たちに見せながら、同時に、弟子たちの訓練を始めました。

1、見せる、主イエス

それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。(マタイ8:14~15)

 主イエスはペテロの家に寄りました。休息のためかもしれません。すると、ペテロの奥さんのお母さんが高熱のために寝ていたことが分かりました。主イエスは、その年配の婦人の手に触れました。熱はすぐに引き、主イエスをもてなしました。

 「イエスさま、ありがとうございます。熱が高くて死にそうだったのに、私に触れてくれたら一瞬でなおりました。熱がさめた時は、普通はふらふらして歩けないのに、今はぴんぴんしています。奇蹟です。食事作りくらいしか能がないから、イエスさまのために食事を作りますから、食べていって下さいね。」という心境だったでしょう。

 「イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。」

 「もてなす」という言葉は原語でディアコネオーといいます。本来の意味は、食卓で給仕することで、仕える、奉仕すること。教会の役員、執事(ローマ16:1)は、ディアコノスという呼ばれました。もてなすという動詞が名詞になったものですが、教会の役員が名誉職ではなく誰よりも仕える者として期待されていたことが分かります。救われた者、いやされた者は、自然な応答として、主イエスに仕える者になります。


夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8:16~17)

 主イエスのもとには病人だけでなく、悪霊につかれた人が連れて来られました。悪霊は、サタンの手下で、人間に取り付き、人格と肉体を乗っ取ります。悪霊に取り付かれた人は、精神的に混乱したり、肉体的には病気になったり、危険な場面に陥れられたりして苦しみました。家族の苦悩も深刻でした。使徒の働き19章を見ると、ユダヤ人の悪魔払い祈祷師がいたことも分かります。

 「イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。」

 そうした悪魔払い師が長時間の祈祷や怪しげな薬や呪文などを使うのとは異なりました。原文では、ひとつのロゴス=wordで追い出した、となっています。主イエスは、たった一言で悪霊は逃げ去りました。

 主イエスは、弱い人、病気の人、苦しむ高齢者、悪霊に苦しむ人にまなざしを向け、病の辛さを共有して下さり、いやして下さいました。
 これは、700年前に預言者イザヤが予告した救い主の姿にぴったり一致します。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

 高齢の人、病のために弱っている人、苦しむ人に寄り添う人になりたいです。



2、鍛える、主イエス 

さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」(マタイ8:18~20)

これからの箇所は、主イエスの弟子訓練の姿を見ることができます。

本来は主イエスの敵であった律法学者の一人が、主イエスの教えと奇蹟に魅了されました。どこにでもついて行きますと言うのですが、主イエスは、その律法学者の心の内を見抜かれて、あえて厳しく言いました。キリストの弟子の生活は簡単ではなく、寝る場所さえなくて野宿することもあるが、それでも来る覚悟があるかと言われたのです。

また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」(マタイ8:21~22)

主イエスはカペナウムでの働きをひと段落させ、ガリラヤ湖の向こう側、つまり、東側に行くことにしました。その地域は外国人が多く住む場所で、普通ユダヤ人は行きたいとは思わない地域です。

十二弟子以外の弟子のひとりが、実家の父が死んだので、向こう岸への旅には参加できませんと言ってきました。すると主イエスは、葬儀は誰かに任せて、ついてきなさいと、厳しく言われました。
キリストの弟子は、自分のタイミングで動けません。大切なものを捨てたり、大切なものをささげたりするのです。

 価値観の破壊と再構築が行われます。これは、弟子としての最も大切なトレーニングです。困難な問題や局限状況に直面し、気づき、選択し、従い、仕え、献身する。これが、弟子としての鍛錬の道です。

「私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です」(イザヤ64:8)
キリストの弟子は、まるで粘土です。最初は、空気を抜くために強く叩きつけられます。粘土の気持ちになれば痛いです。次は、形成です。自分の望まない形に作り変えられます。最後は、高温で焼かれます。それで、みごとな器になり、人々のお役に立ちます。

まさにキリストの弟子たちは、破壊と再構築のプロセスを通りながら、キリストに似た者になっていきます。さあ、弟子としての鍛錬が始まりました。ついて行きましょう。主イエスに。

 「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」

 →あなたの番です
  □弱い人、年配の人、苦しむ人に寄り添う者になりましょう
  □弟子として作り変えてもらいましょう