マタイ11:1~6 ぐらつくヨハネ

 今回は、バプテスマのヨハネの心の葛藤を取り上げます。

1、疑うヨハネ

イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」(マタイ11:1~3)

バプテスマのヨハネは炎の預言者でした。らくだの毛皮を着ていなごと野密を食べて荒野でストイックな生活をしながら、罪を悔い改めよと人々に叫び、救い主のために道を備える働きをしました。(マタイ3:1~6)
庶民でも権力者でも分け隔てなくはっきりと罪を指摘し、悔い改めのバプテスマをヨルダン川で授けました。国主ヘロデの結婚が不法だと糾弾したため、捕らえられ、今は牢獄に閉じ込めたれていました。(マタイ14:3~4)

本来のヨハネなら、主イエスの数々の奇跡を聞いて、「ハレルヤ!あなたの奇跡のみわざを聞いて心からあがめます。あなたこそ私が道を備えた救い主です」と主イエスに言葉を伝えていたはずです。

ところが、ヨハネは信仰がぐらついていました。主イエスの奇跡の話を聞いても「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」と弟子を通じて主イエスに尋ねました。

隔離され、孤独になり、劣悪な環境と最低の食事のために体も心も衰弱し、死刑の恐怖が信仰を不安定にさせたのかもしれません。救い主であるはずの主イエスが、私を牢獄から救い出してくれない。今までの労苦は報いられるのだろうか。自分が信じて来た救い主は、本当にイエスだったのだろうか。

 あなたも信仰がゆらぐときがありますか。



2、事実に目を向けよ

イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられているのです。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイ11:4~6)

主イエスは、ヨハネを叱責しません。

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」というヨハネの質問に対する主イエスの答えはシンプルでした。わたしが救い主だと言う代わりに、聞いたり見たりしていることをヨハネに伝えなさい、とヨハネの弟子たたちに命じました。

信仰がぐらついた時は、第一に、事実に目を留めることが必要です。主イエスが何をなさったか、何が起きたのかを心に留めましょう。信仰の土台は事実です。

目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられているのです。(マタイ11:5)

イエスの奇跡は、誰もできないし、誰も見たことのないものでした。イエスの敵対者の祭司や律法学者すら奇跡を否定できなかったことを思い起こして下さい。「この人は、悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」(マタイ12:24)「彼は他人を救ったが、自分は救えない。」(マタイ27:42)

主イエスは、実際に起きた奇跡によって、ご自分が神であり救い主であることを示されました。



3、みことばに目を留めよ

信仰がぐらついたときに、第二に大事なことは、神のことばです。

主イエスは、「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられているのです。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」と言われました。

主イエスの発言を聞いて、ヨハネはイザヤ書35章を思い出し、ドキッとしたはずです。主イエスが言われたことは、イザヤ書35章の預言の成就だったからです。
「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない舌は喜び歌う。」(イザヤ35:5~6)

 そもそも、ヨハネは祭司の息子であり、聖書に通じていた人でした。イザヤ書の言葉から自分の使命を理解して「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」(ヨハネ1:23)という自己認識をしていました。
 主イエスの言葉の引用元であるイザヤ書35章の最初の部分も同時に思い起こしたはずです。

 「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。
  心騒ぐ者たちに言え。
  『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。』」(イザヤ35:3~4)

 信仰が揺れ動くことは人生に何度かあります。そんな時、「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」と言って私たちを励まして下さいます。

 ヨハネの立場で主イエスの言われた内容を聞き直すと、主イエスの言葉に励ましのヒントが隠されていた事が分かります。
 バプテスマのヨハネは、牢獄から出られず世の中の事は見えない盲人の状態にいました。牢屋の外に出られず、足が不自由で歩けない人のようでした。ツァラトに冒された者のように隔離され孤独でした、耳が聞こえない人のように情報が限定されました。死刑を待つ身のヨハネは、生きていても死人でした。そして、最も貧しい人のような最下層で失望した人のように暮らしていました。主イエスは、これら6つの事柄に勝利する奇跡をなさったお方です。ヨハネにとって何と大きな励ましになったことでしょう。

 信仰が揺らいだ時は、第一に事実に目を向け、第二に神の言葉に留まり、第三に主イエスの励ましに耳を傾けましょう。

「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。」


 →あなたの番です
   □心がゆらぐときもある
   □事実と神の言葉に土台を置く
 □主イエスの励ましを受け止めよう