マタイ11:7~19   主イエスは、ほめる方

 主イエスは、ナタナエルをほめ、百人隊長をほめ、ナルドの香油の女をほめました。今日、主イエスはバプテスマのヨハネをほめています。

1、ほめられたヨハネ

主イエスは聴衆に向かってこう言いました。ガリラヤの人たち、あなたたちは60マイルも南にある荒野まで行きましたね。その目的は、ヨルダン川岸の葦を見るためでも、宮殿に住む貴族たちを見るためでもありません。バプテスマのヨハネを神の人として認めたから行ったのです。彼は、「預言者よりもすぐれた者」なのです。彼は並の預言者ではなく最高の預言者です。

この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。(マタイ11:7~9)

 ヨハネの弟子たちが主イエスの回答を持ち帰った事を見届けてから、主イエスは群集に向かって、公に、バプテスマのヨハネを賞賛しました。まるでヨハネの表彰式ようです。

 牢獄の看守が主イエスのほめ言葉を伝え聞き、「すごいな。あのイエスがお前のことを人前でほめてるぜ。最高の預言者だってよ」とヨハネに教えたかもしれません。
ヨハネの弟子たちも、「聞いてください先生、救い主イエスがあなたのことを人前ではっきりとほめています。あなたより偉大な人物はいないと。先生、良かったですね。私たちも嬉しいです。鼻が高いです。」
ヨハネは苦しい獄中生活をしていましたが、主イエスの賞賛の言葉は何よりの励ましになりました。今までの苦労が報われ、心が開放される喜びを味わったことでしょう。

青函トンネル工事で34人の人が命を落としました。黒部第四ダム工事では、171人が亡くなりました。東海道新幹線の工事では210人が死亡しました。尊い犠牲を忘れてはならないし、遺族の方々のためにもこうした人々への賞賛を後代に残していくべきだと思います。主イエスがなさったように、公に、明瞭に。

主イエスは、ほめて下さる方です。

主イエスはあなたもほめてくれます。あなたの隠れた苦労、誰にも知られていなかったあなたの親切、良い行い、誠実さ、涙、ささげた祈りを主イエスは見て、あなたを心からほめてくれます。私たちの神、救い主イエスはあなたを賞賛してくれる人です。



2、ヨハネの優れた点

この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。耳のある者は聞きなさい。(マタイ11:10~15)

主イエスは、客観的にほめ、主観的にほめ、最後に、努力をほめました。

 「見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。」という言葉は旧約聖書のマラキ書3:1です。主イエスは、ヨハネの業績をほめました。ヨハネは、マラキの預言通りの働きをした。救い主のために、ひたすら道を備えた。これは客観的な評価です。誰が見ても、その通りだと分かりました。

 主イエスは次に、女から生まれた者の中でバプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ません」と断言されました。
確かに、ヨハネは偉大です。母の胎内にいた時から聖霊に満たされていた。(ルカ1:41)。庶民の罪も国王の罪も恐れずに断罪する勇気を持っていた(マタイ14:4)。荒野で叫ぶ声(ヨハネ1:23)としての分をわきまえ、救い主を指し示す謙虚さを持ち続けた(マタイ3:11)。救い主に直接会うことが許された唯一の預言者であり、主イエスにバプテスマを授けた人(マタイ3:15~16)。

ほめ言葉は、主観的で良いのです。「私から見たら、あなたは世界一ハンサム」「何歳になってもあなたはステキ」と奥さんが本当に思えば、それは立派なほめことばです。
主イエスは、人類史上でヨハネが最高の存在だとほめました。ヨハネはこの言葉を聞いて苦笑いしたかもしれません。主イエスの主観的評価になるかもしれませんが、それで良いのです。牢獄で、ヨハネは大きな勇気を得たはずです。

 「この人こそ、きたるべきエリヤなのです」と主イエスは言われました。竜巻にまかれて地上を去った力ある預言者エリヤは、世の終わりに帰って来ると預言されていました。(マラキ4:5)ヨハネこそがエリヤだと主イエスは明言されました。

 小学生の女の子が、自発的に早起きして勉強をしたという作文を読みました。それによると、お母さんがほめてくれるかな、ほめてくれると嬉しいなと期待しながら勉強の成果を見せたというのです。お母さんはほめるずに、むしろ怒って、明日の分もやりなさいと言いました。女の子は、思わず泣いてしまったという作文です。

 主イエスは、バプテスマのヨハネの信仰の揺らぎを知って、叱り飛ばすこともできましたが、何も責めませんでした。むしろ、ヨハネをほめました。客観的に、主観的に、多くの言葉を用いて公にほめました。
 主イエスは、そういう方なのです。



3、笛ふけど踊らず、だね

この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」(マタイ11:16~19)

 最後に主イエスは、もう一つの方法でヨハネをほめました。
 ほめる時は、客観的に成果が出た時、主観的に素晴らしいと感じた時、そして、努力したのに報いられなかった時に、そのプロセス自体をほめることができます。

 主イエスはヨハネにこう言っているのです。笛吹けど踊らずで、預言者はつらいよというところだな。何度も断食し、荒野で野蜜やイナゴを食べてサバイブしたのに、悪霊呼ばわりされてかわいそうだ。わたしの歩みもあなたとそっくりだ。罪人の救いのために一緒に食事をすれば、大食漢で大酒飲みと揶揄され、取税人と同類だ言われた。君の苦労は良く分かる。良く頑張った。

 成果が出なくても、失敗しても、ほめることができます。

 入学後、初めての登校日に電車通学をした中学生がいました。緊張のあまりカバンを棚に置いたまま降車してしまいました。駅員さんと交渉し、数駅先まで行って回収して学校に行きましたが大幅な遅刻になり校門付近で校長先生とばったり出会ってしまいました。
 その女性生徒は遅刻をわび、何があったのかを説明しました。校長先生は、それは大変でした、自力で取り戻せたのだから立派です、そういうあなたを誇りに思いますよと言ってくれました。

 主イエスは、あなたの苦労をねぎらって下さる方です。ほっと一息つけますね。

 やがて私たちはイエスさまにお会いする日がきますが、主イエスはきっと言ってくれます、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」(マタイ25:21)と。

人をほめられない人は、神を賛美することが困難になります。賛美の本質は、神をほめることだからです。いつも身近な人をほめている人は、どんな時でも神をたたえることができます。
さあ、今週、周囲の人をほめましょう。あなたは、主イエスにほめてもらっている人なので、きっとできます。夫をほめ、妻をほめ、子供をほめ、上司や同僚をほめましょう。


→あなたの番です
 □主イエスは、あなたをほめてくれます
 □今週、身近な人をほめる  
□客観的に、主観的に、努力をねぎらい、ほめましょう