逃げる 創世記39:1~18

奴隷としての苦労

 奴隷としてエジプトに連れて行かれたヨセフには、どんな苦労が待っていただろう。最初の壁はエジプトの言葉だろう。アメリカに住む日本人は英語で苦労するし、馬鹿にもされる。ヨセフも同じだろう。次は、奴隷労働の過酷さだろう。汚い、きつい、繰り返しの三拍子のそろった奴隷労働は出口がない。うまくできなければ容赦なく鞭が飛ぶ。ゴキブリとねずみに囲まれて夜は寝たことだろう。孤独で、情けなくて、兄たちを恨んで当然だろう。
 あなたにとって、エジプトでの奴隷生活とは何だろう。今の生活そのものが奴隷労働かもしれない。

ヨセフはなぜ変化したのか。

 兄たちに妬まれ奴隷に売られたヨセフは当時17歳だった。生意気で、わがままで、端にも棒にもかからなかった。
 それが、27歳前後には、エジプトの高官ポティファルから信頼される人物と変わっていた。また、ポティファルの妻からは、実に魅力的人物とみられていた。
(祝福された人にこそ誘惑が襲ってくることに注意しよう。主が共におられても、誘惑はあるし、誤解されて不遇に投げ込まれることもある。誘惑からの回避方法は、逃げるの一言につきる。戦うな。逃げよ。)
 確かに、ヨセフの中で何かが大きく変化した。その理由は何だろう。キーワードは「主がともにおられた」だ。

「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。」(2節)

「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」(3節)

 主語はヨセフではなく、神だ。神がヨセフと一緒にいてくださった。これが、変化の根源的理由だ。
 兄達が妬み、憎み、殺したいほどの人物のそばに、神はおられた。ここに、神の愛が現われている。惨めで、裸で、罪だらけの私たちを見捨てない。これが神の愛だ。ヨセフは、いつの間にか、神を求め始めた。後ろ向きで否定的な生き方が徐々に変化していった。気づくと、仕事を積極的に行い、工夫し、仲間の和を作り、リーダーシップを発揮していた。家畜も穀物も豊かになり、家の中には活気と調和が生まれ、主人もヨセフに一目置くようになった。主がヨセフとともにおられたからだ。
 
 主イエスは、憎まれ者で金の亡者ザアカイにご自分から声を掛けられた。
「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(ルカ19:5)

 また、主イエスの復活が信じられない二人の弟子にエマオ途上で現われて、主イエスは一緒に道を歩かれた。
「イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかし、ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」(ルカ24:15~16)

 イエスはそういうお方なのだ。

 今週は、主イエスがあなたと共におられることを意識して過ごそう。主がともにおられることを拒絶してはいけない。主がおられることにもっと敏感でいよう。車の助手席、食卓の空席、職場や学校やリビングルーム、ベッドルームにも主は共にいてくださる。生活のどんな場所にも主イエスがおられると知った人は、大きな慰めと勇気を得る。