監獄で 創世記40:1~15

 面白い計算をしてみましょう。1から10の数字を選んでください。それに1を足し、答えに2を掛け、4を足し、2で割り、最後に選んだ数で引いてください。おもしろいことに、最初にどの数を選んでも答えは全部3になります。これと同様に、どんな道を選んでも、最後には苦しみが待っている、これがヨセフの人生の常でした。

1、最悪に届く恵みと臨在

 ヨセフが奴隷として働くことになったのはエジプト王の側近ポティファルの家でした。能力とリーダーシップをポティファルに認められたヨセフは、家の管理すべてを任されました。ここまでは良いのです。我がままでKY(空気が読めない)な17歳のヨセフも、随分と成長したものです。
ところが、主人の妻に言い寄られ、拒絶したところ、事実無根の性的虐待容疑の訴えを起こされ、怒った主人はヨセフを牢屋に投げ込みました。

「しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」(創世記39:21)

 ヨセフの最悪、最低の苦しみの場所に、主は共にいて下さいました。どんな事態でも、神の恵みが届かない最悪や最低は存在しないのです。よく考えて下さい。主人の妻に性的乱暴をしかけた奴隷なら、殺されて当然です。ヨセフのいる監獄は、ポティファルの大きな屋敷の敷地内にあった特別の監獄だったことも分かります(40:3)。監獄という状況の中にも主人の温情が見て取れます。

 あなたの“監獄”に注がれている主の恵みを捜しましょう。

 ヨセフは17歳の時のヨセフではありません。27、8歳のヨセフは、主が共におられることを知ったヨセフです。一時は落胆したでしょうが、主人や奥さんを呪う過ちから守られ、監獄でできる仕事を自分なりに積極的にこなすようになりました。

 「それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことをかんりするようになった。」(39:22)

 奴隷であっても家の監督官になったヨセフは、監獄でも一人の囚人ではなく、監獄管理者の立場になっていました。

2、神のなさること

 監獄に新入りの囚人が入ってきました。エジプト王の側近で、ひとりは献酌官長、もう一人は料理官長でした。王様に差し出したぶどう酒に、不幸にしてハエが飛び込んだりしても処罰されるような時代でした。

 ヨセフが政府高官に仕えることになり、身の回りの世話をしました。空気の読めなかったヨセフが、40章7節で二人の顔色まで注意していた事が分かります。
聞くと、夢を見たといいます。献酌官の夢は、ブドウがなってエジプト王の杯に注ぐという夢で、料理官の夢は、料理の入った籠が取りに食べられるというものでした。

 ヨセフは、その解き明かしを申し出ました。
「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」(40:8)

 主が共におられると知った人は、主に問題解決をゆだねることができます。ヨセフは誰よりも働いて、努力した人だったでしょう。けれども、能力も、頑張りも、知識も、理解力も、神からもらっているとヨセフは理解するようになったのでしょう。だからこそ、謙遜だけれども、大胆になれるのです。本当の謙遜は、見せ掛けだけの謙遜そうなポーズではなく、自分を用いて頂きたいという大胆さに現れるのです。
 
 真剣に二人の話を聞いたヨセフには神からの知恵が与えられ、献酌官が3日後に元の地位に戻ることを説明し、料理官は処罰されるであろうと指摘しました。事実、ヨセフの解き明かしの通りになり、これが、後のヨセフの人生を方向づけます。

 残念なことに、献酌官長は、ヨセフのことを忘れて2年も時間が流れることになります。またまたヨセフは苦しみが続きます。どう転がっても「3」に戻る人生なのでしょうか。いいえ違います。どう転がっても、主が共にいてくださる人生です。最悪、最低にまで神の恵みは届くのです。

 あなたの最低、最悪は今ですか。そこにも主の恵みは届いています。
「あなたは、わずかな物に忠実だったから、わたしはあなたにたくさんの物をまかせよう。」(マタイ25:21)
 神が事をなさる、あなたがそう期待する事柄は何ですか。

「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。」(マルコ10:27)
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マルコ6:48)