まだ悟らないのですか マルコ8:1~21

 学生で、宿題やレポートをぎりぎりに出す人がいます。礼拝で手を手を上げてもらいましたが、ほとんどの学生はラストミニッツ型ばかりでした。大人の人は、税金書類をぎりぎりに出す人は、思ったより少なかったです。
 あなたの直面する問題は、かつて経験した問題と類似点がありませんか。経済的問題、人間関係、家族の問題、病気の問題、あのとき主が助けてくださったなら、今度も主にすがったらどうでしょう。ところが、なかなかそうはいかない。今日登場する弟子たちを責められませんね。

1、なかなか悟らない弟子たち

 弟子たちは同じ失敗を繰り返しました。かつて主イエスは5000人をわずかなパンで養うという奇跡を行いましたが、弟子たちはすっかり忘れています。
 「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」(4節)
 主イエスに信頼しきっている弟子なら、「イエスさま、前回と同じように、この人々の空腹をいやしてください」と願い出ることもできました。でも、それができないのです。

 その後は弟子たちは、パンを持ち帰ることを忘れたため、お互いに言い争いました。
 「パンを持ってくるのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。」(14節)
 「そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論になった。」(16節)
 主イエスは、そういう弟子たちを見て、今までの二つの奇跡に言及し、次のように言われました。
 「まだ悟らないのですか。」(21節)

 人というものは、過去の経験から学んでも忘れやすいものですね。

 あなたは今、困難に直面していますか。その困難とは何ですか。かつて経験した悩みに似ていますか。
 
 今までと違う方法で、問題にアプローチしてみましょう。主イエスをあなたの前に置くのです。主イエスと二人で問題に当たるのです。かつて主イエスが助けてくださったなら、同じように主イエスに信頼できますね。

 森永太一郎(1865-1937)は九州伊万里の人ですが、22歳でアメリカに渡り、親切なアメリカ人クリスチャン夫婦に導かれ洗礼を受けました。日本にいったん戻り、伝道しましたが成果がなく、アメリカの菓子を日本で売る仕事をしようと再び米国へ、33歳で帰国。赤坂に2坪の敷地で仕事を始め、マシュマロなどを売り始めます。透明ケース付きの屋台に菓子を入れ、上には看板を取り付けました。そこには、<キリスト・イエスは罪人を救うために世に来たれり。義は国を高くし、罪は民をはずかしむる>と書いてありました。
 事業成功後、信仰の意欲が鈍りますが、妻の死により熱意が戻ります。関東大震災のおりには、保管していた菓子すべてを被災者に配りました。69歳で退職後は、日本各地を巡り「我は罪人の頭なり」と題して伝道を行いました。

2、自分のゆがみに気づかないパリサイ人

 パリサイ人は、自分は真面目で純粋だ、主イエスが本当の救い主か調べている、と思い込んでいました。実のところ、頭から信じる気はなかったのです。あら捜しをしているだけでした。
人は、自分のゆがみに気づかないものだ。

 歳をとると年輪を重ねた大樹のようになるのかというと、そうでもありません。ばあさんという言葉の前には「意地悪」が付きやすいし、爺さんという言葉には「頑固」が付きやすいのはなぜでしょう。心の傾きを持ったまま歳をとるので、悪い傾向が増加し、固定してしまうのです。

 「イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。『なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。』」(12節)

 あなたのゆがみは何でしょう。あなたの心の傾きは何でしょう。あなたの弱さは何でしょう。
その部分に主の恵みがしみこむといいですね。

 小林富次郎(1852-1910)は、36歳でクリスチャンになりました。後に、宮城県石巻に工場を作り、フランスの機械を取り付けました。北海道から木材を多量に買い付け、マッチを作る予定でした。ところが大洪水で原木すべてが流され、工場は浸水、進退窮まり、北上川にかかる橋に出かけた夜、自殺するつもりでした。そのとき、神戸の長田牧師からもらったはがきに書かれていたみことばが心に突然きらめくように現われました。

 「すべての懲らしめはそのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるのですが、後になるとこれによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12:11)

 それで、自殺を取りやめ、心機一転東京で石鹸とマッチの取次ぎ商店を始め、後にライオン石鹸として有名になりました。

 今日は、二人の明治時代のクリスチャン実業家の話をしましたが、それぞれ、再起、やり直しの物語です。困難に信仰によって立ち向かったものストーリーです。

 今度はあなたの番です。主に嘆息されるクリスチャンは卒業しましょう。まだ悟らないのですか、と言われるのはこれで最後にしましょう。
 主イエスさまを、あなたの前に置く人になりましょう。

「私はいつも、私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩篇16:8)