何か見えるか マルコ8:22~26

1、手を取るイエス

ベツサイダは「漁師の家」という意味の町。ガリラヤ湖畔の町で、北から川が注ぐ付近にある。主イエスと12弟子の一行が訪れると、一人の盲人男性が連れてこられた。さわってほしい、とはつまり癒してほしいという意味だ。
主イエスは、わざと人々の目の前でいやさなかった。病気のいやしをテレビや大規模な集会でクローズアップするキリスト教の流行とは、まったく対極にある。いやしは見世物ではないのだ。

 「イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた」(23節)

主イエスは、盲人の手を取り、静かな場所を探して歩かれた。しばらくの間、盲人は何かを話しただろう。「あなたがうわさのイエスさまですか。病人をいやすというのは本当ですか。あなたはどなたですか」
 
盲人は、文字通りに言えば、主イエスの後に従う人になっていた。主イエスを信頼して歩く人になっていた。人々の興味本位の目から遠ざけてくださった。主イエスの心は温かい。信頼できる人だと気づき始めた。
 主イエスは、興味本位で否定的な世界からあなたを連れ出すお方なのです。


2、段階的に導くイエス

(23節)「両手を彼に当ててやって、『何か見えるか』と聞かれた。」

普通、主イエスは一瞬で病をいやします。長血の女も主イエスの衣に触れた瞬間に直りました。中風の男もたちどころに歩けるようになりました。ところが、主イエスは、段階的に盲人をいやされました。なぜでしょう。

おそらく、盲人の信仰を引き出すためでしょう。自発的信仰を与えるためでしょう。いやしのショーの実験動物の立場から、ひとりの信仰者へと導くためです。

「何か見えるか」という主イエスの問いに、男は真剣に見ようと試みます。歩いている木が見えてきて、期待が高まったでしょう。もっと見たい。完全に見えるようになりたい。主イエスさま、あなたを本気で信じます。いやしてください。

主イエスは今日もあなたに問いかけています。何が見えるか。あなたの内面で起きている信じる心の変化は何ですか。あなたの問題の中で起きている、希望の光が見えますか。



3、新しい出発を促すイエス

 「すべてのものがはっきり見えるようになった。」(25節)

男は、ついに完全にいやされました。もう昨日までの自分ではありません。ここで言われた主イエスの助言はちょっと不思議に聞こえます。

(26節)「そこでイエスは、彼を家に帰し、『村にはいって行かないように』と言われた。」

なぜ、村に入るなと言われたのでしょう。男に新しい方向性を示された、と考えることができます。当時の盲人は、地べたに座る乞食としてしか生活できませんでした。見下げられた極貧の人々でした。もう昔の世界に戻るな、自分の家に帰り目が見えるようになったことを告げ、別な町に働きに出て行き、人生をやり直せ、という励ましの言葉として私には受け取れます。

主イエスは今日、あなたにどんな新しい道を示されましたか。

主イエスは、あなたの手を取り否定的で興味本位な世界から引き出すお方です。そして、あなたを段階的にいやし、あなたの信仰を引き上げる方です。最後に、あなたに新しい方向性を示してくださる方です。主イエスの手をしっかり握って離さないでついていきましょう。