十字架の予告 マルコ8:31~33

ピリポ・カイザリヤへの途上、主イエスは弟子たちの信仰を注意深く確認した。確かに弟子たちは、主イエスを救い主と心から信じている。これは、十字架の予告をするための必須事項だった。

1、人生の目的を持っていた主イエス

「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、3日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」(31節)

 福音書に「人の子」という言葉が81回記録されている。主イエスは、言葉を選んで、必要なときは「私」と言わずに「人の子」という用語を使用された。もし<メシヤ>の称号を使えば、政治的な革命指導者と当時の人が理解していたからだ。父なる神が遣わされた真の救い主を指す意味で、主イエスは「人の子」を用いられた。

 ルカ19:10「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

日本のドラマの居酒屋シーンなどで、「とりあえずビール」というせりふがよくある。(私は酒は飲まないのでこういう場面は体験的には知らない。念のため)同じように、とりあえずこの学校に行こうとか、とりあえず近くの会社に勤めよう、と思う人が多い。だから、とりあえずこの人と結婚するか、ということで、後で随分と悩むことになる。気がつくと、とりあえずの連続で墓の前まで行くひともある。とりあえずの人生で、あなたは本当にいいのか。

主イエスは、ご自分が誰かはっきり認識しておられた。人生の目的は、十字架で死に、多くの人の罪を赦すことだった。そのために生きている。主イエスを貫く心棒は明瞭だった。あなたはどうだろう。あなたの人生を貫く心棒は何だろう。


2、弟子たちへの予告

中学校を卒業する時、女性の先生から特別に色紙を頂いた。そこには筆書きで「人生はお茶漬けのようなもの」と書いてあった。中学生の私には意味が分からなかった。でも、今、少しわかってきたような気もする。その時分からないが、後に分かることもある。

主イエスは、弟子たちの信仰告白のレベルを見て、時が来たと感じられたようだ。弟子を子供扱いせず、主イエスの歩む道を率直に開示する必要を覚えたのだ。これは角度を変えて言うなら、主イエスは弟子を信頼されたという意味だ。
もちろん、弟子たちがすべてを理解できるはずがない。だから段階的に、今回も含めて3回に分けて十字架の予告をされた。しかも、一回ごとに内容を深めていかれた。(→マルコ9:31、10:33、34)

 主イエスは大切な事は、レベルを下げずに弟子たちに教えられた。最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗うイエスは、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ13:7)と言われたことは意味が深い。

あなたは、今、理解できない事があるかもしれない。分からない事があるかもしれない。大きな命題を神から示され、困惑しているかもしれない。主イエスは、あなたに大切な事を語っておられる。いつかきっとそれが分かる時が来るだろう。

3、人のことを思う弱さ
 
 ペテロは主イエスをわきにお連れして、いさめた。その同じことばが、主イエスがペテロをしかるときにも使われている。ペテロがかなり強い言葉で言ったことが分かる。ペテロの先入観によると、救い主は死ぬことなく政治的にユダヤを解放してくれると期待していたようだ。主イエスの力をもってするなら、ユダヤの政治権力もローマも武力も、一気に壊滅させられると踏んでいたようだ。

 主イエスの反応は非常に厳しいものだった「さがれサタン」(33)これは、公生涯に入る前の荒野の誘惑で、主イエスがサタンの誘惑を退けた場面の言葉と本質的に同じだ。「引き下がれサタン」(マタイ4:10)

 サタンは、主イエスを十字架の道から遠ざけようとした。最大の誘惑とは、十字架の恥と苦しみなしに人々の王になる事だった。今、ペテロの口をついて出たおそらくは常識的な言葉は、主イエスにとってサタンの言葉と同一のものと受け取られた。

 「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(33)常識と思える視点が、ともすると人の目を気にした言動であり、神のみこころに真っ向から反対する場合もある。
 今、人のことを思いすぎて判断がぐらついている事柄がありますか。常識的と見えても、実は神に逆らうことを選ぼうとしていませんか。

 ペテロは、主イエスの十字架の死と復活を身近に目撃し、ペンテコステを経験した後、大胆な人へと変えられました。「人に従うより、神に従うべきです」(使徒5:29)とユダヤ指導者らの前で発言し、命がけで福音を伝える人になったのです。

最近、人のことばかりを気にかけて、神を忘れていませんか。神のことを思い、神に従うべきです。