信仰告白 マルコ8:27~30

 ガリラヤ湖の水面は海より200メートルも低い。主イエスと12弟子は湖の北岸から一路北に向けて出発した。標高2814メートルのヘルモン山に至る上り坂を進んでいった。その中腹にあるピリポ・カイザリヤには、ヨルダン川水源の一つとされた泉が湧き出ている。人ごみから離れた弟子たちは、水音が聞こえそうな道を登りながら、静かな心になっていたかもしれない。木陰に休んだおりに、主イエスは質問されたのだろうか。非常に大切な質問を二つされた。一つは導入的な質問。もうひとつは核心を突いた質問。

1、 人々は何と言っているか

 (27節)「人々はわたしをだれと言っていますか。」

 イエスさまが公に活動を始める前にバプテスマのヨハネがヨルダン川で人々に罪の悔い改めを勧めた。この活動を見て、祭司とレビ人が尋ねて来て真剣に質問した。「あなたはどなたですか。」(ヨハネ1:19)この質問は、あなたは旧約聖書が預言していた救い主ですか、という意味だ。これに応えてヨハネは、「私はキリストではありません。」(ヨハネ1:20)と否定した。当時の人々は、日々の苦しい生活がローマ帝国による過酷な占領支配と考え、政治的な解放者を救い主として待ち望んでいた。

 12弟子たちは人々の主イエスに対する評価を3つ挙げた。
・バプテスマのヨハネ→「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ」(マルコ6:16)
・エリヤ→「預言者エリヤをあなたがたに遣わす」(マラキ4:5)
・預言者の一人→「ひとりの預言者をあなたのために起こされる」(申命記18:15)

 実は、これ以外にもイエスさまに対する見解はいくつかあったが、弟子たちはは無視した。
・ナザレの人々→この人は大工だ。ヤコブ、ヨセ、ユダの兄にすぎない。(マルコ6:3)
・律法学者→イエスは悪霊に取りつかれている。(マルコ2:22)

 現代も主イエスについての評価は色々ある。四大聖人の一人とか、思想家、哲学者、道徳の教師、革命家など。

2、 あなたは何と言うか

 (29節)「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

 キリストとは、イエスさまのラストネームではない。ヘブル語のメシア(油注がれた者)をギリシア語で表すとキリストになる。キリストとは、旧約聖書で預言されていた救い主のことを指す。
 ペテロは主イエスの質問を聞き、今まで過ごした主イエスとの年月を振り返ったことだろう。盲人の目を開ける奇跡、ヤイロの娘をよみがえらせた力、ガリラヤ湖の上を歩く姿、5千人にパンを与えた出来事など思い起こし、山上の垂訓など主イエスの深遠な教えを振り返ったことだろう。

 ペテロの答えた、「あなたはキリストです」(29節)。

 ペテロは確信を持って答えた。人々の意見に流されずに答えた。

 フランスの数学者ブレーズ・パスカル(1623-1662)は、イエスさまを救い主として受けれた出来事を以下の言葉で表現している。
 「歓喜、歓喜、歓喜。火、イエス・キリスト。哲学者の神にあらず。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」
 パスカルは上着の襟にこの言葉を書いた羊皮紙を縫いこんで、生涯離さなかったという。

 あなたも、ペテロのようにはっきり信仰告白しよう。あなたは、私の救い主です。私のような者を救ってくださり感謝します。私はあなたを誇りとします。あなたを目標にして生きて生きます。
 実は、小さな信仰告白に様々な意味が込められている。信仰告白とは、単なる今の感想で終わらず、生涯継続するものだ。プロポーズの言葉が、その時だけで終わらず、一生連れそうという決意であるのと良く似ている。
 あなたにとって、一番大事な人、イエスさまとずうっと一緒に生きていこう。誰にでも胸を張って紹介しよう。信仰告白は、イエスさまこそ私の救い主であり、私は生涯あなたといっしょに生きて行きますという表明なのだ。