失敗したとき  ルカ18:9~14

 「若葉のメッセージ」シリーズの4回目です。救いの確信を失うきっかけに、罪の問題があります。
 主イエスを信じた。バプテスマも受けた。けれども罪を犯してしまった。こんな自分は教会に行く資格がない、と極端に考えることがある。今日のメッセージは、そんなふうに考えている人へのメッセージです。

 主イエスは、パリサイ人と取税人の祈りをたとえ話として教えられました。自分は正しいと思い込み、他人を見下している人がいましたが、そうした人々が自分の間違いに気づくようにとたとえ話をしました。

1、パリサイ人の祈り

 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』(ルカ18:10~12)

 パリサイ人の祈りには二つの特徴があった。
1)他人と比較する
 パリサイ人は、神に語りながらも、意識は他人にだけ向いていた。他人との比較は、結局、優越感か劣等感しか生み出さない。パリサイ人は、自分は立派な人間だと自認し、取税人のような詐欺も悪事はしていないと優越感に浸っていた。空腹でつらくても断食し、生活が苦しくても献金の割合は崩さななかった自分を自画自賛し、取税人を見下した。
2)問題的を意識できない
 注意してほしい。パリサイ人は他人に聞こえるように大声で祈りを聞かせたのではない。心の中で祈った。そこにパリサイ人の問題の深さが表れている。彼は、本気だった。自分は立派だと疑わずに信じていた。

 あなたは、このパリサイ人を非難するかもしれない。けれども、あなたは、パリサイ人に似ていないか。あなたの安心や誇りは、人との比較の産物ではないのか。


2、取税人の祈り

 「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(13節)

 取税人の祈りは、2つの特徴がある。
1)真実な悲しみ
 遠く離れて立つ、目を天に上げない、胸をたたく、という姿に、取税人の悲しみが表れている。自分の罪の重さに驚愕し落胆しきっている。

2)罪人である認識
 「罪をゆるしてください」と彼は祈ったのか。そうではない。罪人の私をあわれんでくださいと祈った。ここに、深い自己洞察と信仰がにじみ出ている。
 個々の罪を深く悔いることはもちろんだ。それらを主の前に差し出した後で、取税人はどうにもならない<自分>に直面した。罪を犯してしまう、弱い自分に気づいた。それで、罪をゆるしてくださいという言葉で終止符とせず、罪人である自分自身を主に差し出した。取り繕わず、人との比較で自己弁護をせず、裸で神の前に出る。これが、悔い改めだ。神は、心砕かれた罪人をさげすむことはない。

 「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)

 神のあわれみが、罪を赦し、罪をきよめ、罪人に生きる希望を与えてくれる。取税人は罪人である自分に必要なのは、神のあわれみ以外ないと気づいた。人はみな、神のあわれみをシャワーのようにあびて生きていくのだ。
 キリエ・エレイソン(主よ、あわれみたまえ)と呼ばれるラテン語賛美歌はキリスト教の歴史で歌い継がれた最も有名な賛美歌形態であることもうなずける。

 ビル・マカートニーはコロラド大学フットボールチームを全国優勝に導いた監督で知られる。若いころクリスチャンになったが、成功するとともに形式的な信仰に陥り、娘が未婚の母になる問題を通して自分の問題点に気づいた。妻や娘との関係も修復し、人生をやり直した。その経験を男性クリスチャンと分かち合い、後にプロミス・キーパーズと呼ばれる運動を創設した。運動はその後拡大、1997年ワシントンDCで記念碑的集会を開催、聖書のメッセージに耳を傾け、全国から集まった何十万という男性たちが大地に跪いて真実に生きることを決意した。

 結論です。クリスチャンになっても、罪を犯すことがある。その時、自分は教会に行く資格がないとは考えてはいけない。あなたには、主イエスが必要だ。主イエスのあわれみが不可欠だ。だから、取税人のように、罪人のまま礼拝に出よう。そこで主のあわれみを受けよう。
 主はそんなあなたを見捨てず、悔い改めを促しておられる。取税人のように、主の前に立とう。主があきらめないのだから、私たちもあきらめてはいけない。
 「わたしは、愛するものをしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(ヨハネ黙示録3:19)