ファミリーの温かさ ヨハネ20:24~29

 「若葉のメッセージ」シリーズの第5回目。教会の交わりにとどまること、それが救いの確信を持ち続ける秘訣です。
 自分の信仰が、不十分、弱い、だめだ、ぐらつく、と感じるときこそ、クリスチャンの仲間から離れてはいけません。
  

1、決して信じません

 イエスが十字架にかかったのが金曜日。翌日が土曜、次の日が日曜。その日曜の夜のことです。弟子たちは自分たちも捕らえられることを恐れて、エルサレムのある家で息を潜めて集まっていました。主イエスが突然部屋に現れ、「平安があなたがたにあるように」と言われました。(ヨハネ20:19)主イエスは、その手とわきばらの傷あとを見せ、弟子たちは喜びにあふれました。
 ところが、そこにトマスだけがいなかったのです。(ヨハネ20:24)こういう人があなたのそばにもいますね。乗り遅れてしまう人。
 
 トマスがひよっこり顔を出すと、他の弟子たちは、「私たちは主を見た。」(25節)と言うのです。笑顔満面で、「すごいぞ、イエスさまはよみがえったんだ。見たんだ。会ったんだ。触ったんだ。話したんだ。イエスさまは生きてる。ハレルヤ!」という感じです。
 人間とは不思議な生き物で、人が喜ぶと、自分は落ち込むものです。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」とトマスは叫んだのです。

 「決して信じません」これはトマスの本心ですか。

 そもそもトマスは、他の弟子が集まった日曜の夜、いったいどこにいたのでしょう。聖書には書いてありません。想像するしかないのです。ヨハネ11:16の言葉にヒントがあるかもしれません。
 主イエスと親しくしていたラザロが死んだという知らせを受け弟子達一行が出かけようとした時、トマスは仲間の弟子に言いました。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」(ヨハネ11:16)
 トマスは、事態を深刻に考え、思いつめるタイプ。純粋でまっすぐだが、もろい人。死ぬ場所を探していたかもしれません。主の死を一番悲しんでいたのはトマスだったのかもしれません。

 そうだとすれば、「決して信じません」という言葉の裏には、別な気持ちが隠れていることが分ります。私は、誰よりも主イエスの復活を信じたい。でも、今の気持ちは、証拠をはっきり見ないと信じられない。いい加減な気持ちで、復活を受け入れたくない。なぜ、私には現れてくれなかったのですか。

 あなたはトマスに似てますか。

 救いの確信がゆらぐとき、トマスのように口から言ってしまう人がいます。そう簡単には信じられません。
 クリスチャンでない人で、主イエスを心に迎えたい、信じたいと思っている人の中にも、トマスタイプがいます。信じるならきちんと信じたい。
 ほめる客は買わないといいます。さすがシャネルだね、いいね、という人は見て帰るだけの客です。これ、少し傷があるんだけと、安くしてくれない、と言う人は価値が分かっていて買いたい人です。信じられないと言う人に、信じたいという気持ちが隠れています。私はそういう人に勧めます。今のあなたで、信じたらいいよ、と。信じない段階では前に進めないのです。信仰は、信じることによってしか成長しません。

2、仲間たち

 それから8日後です。当時のユダヤ風に数えると、その日を含めて数えるので、1週間後の日曜日になる。トマスは仲間と一緒にいました。
 信じられないと言い捨てただけなら、トマスは自分の家に帰ったことでしょう。まだトマスは12弟子と一緒にいました。これが、大切なのです。クリスチャンの仲間の中にいる、これが重要なのです。

 信仰の確信がぐらぐらした人は、教会に留まりましょう。信仰のスランプにいるときは、クリスチャンの仲間の中にいましょう。これが、あなたを支えます。トマスに見習ってください。離れちゃいけません。
 他の弟子たちも偉いです。12弟子の一人のくせに、復活は信じないと公言したトマスを仲間として受け入れています。排除しません。

 受け入れる仲間、留まるトマス。これが、愛のコミュニティー、ファミリーの温かさです。仲間はトマスのため祈り、励まします。トマスは、主イエスとの出会いを求め、信仰の成長を願います。これが主の教会の姿です。

 私たちは、同じ世代のクリスチャン仲間の言葉や姿勢から、大きな励ましを受けるものです。何気ない会話、聖書を読んだ感想、普段していること、信じきった心、苦しみの中で主に従っている姿勢、そういうありふれた姿から力を受けるのです。

 私は夢見ます。青年があふれる教会。シニアが喜んで集まる礼拝。幼児を抱えた若いお母さんと子供の礼拝。夫婦が手をつないでやって来る礼拝。会堂が男であふれる男くさい礼拝。同年代がたくさんいる教会となって、多くの人に伝え、多くの人の集う教会になりたいです。

 信仰がぐらつくとき、自分が弱ったときこそ離れちゃいけない。賛美の中にいよう。祈り合う中にいよう。聖書を学ぶ場にいよう。奉仕する場にいよう。クリスチャンの交わりに留まろう。

 出口がない、袋小路と見えるとき、主イエスはあなたに現れてくださる。ヨハネ20:26「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、『平安があなたがたにあるように。』と言われた。」
 
 主イエスはトマスだけに向き直り、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい。信じないものにならないで、信じる者になりなさい。」(27節)

 主イエスを十字架に釘付けたのは私やあなたですが、主イエスは傷の残る手で私たちを招いています。

 トマスは、感極まって、「私の主、私の神」と主イエスに伝えた。

 「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(29節)と主イエスは言われた。

 信じるというのは、自分を信じるのではない。あなたのため、あなたを愛して十字架にかかった主イエスを信じるのだ。信じるという事は、ないものをあるように信じ込むことではない。生きておられる主をそのまま受け入れることだ。信じる人生は、前向きな人生を生み出す。

 さあ、あなたの番です。

 信仰がゆらいでいる人、教会に留まりましょう。同世代の交わりに自分から出て行きましょう。聖書研究のクラスや、スモールグループの交わりに参加しましょう。なければ、あなたと仲間で週に一度とか、月に一度とか、交わって祈り会う機会を作りましょう。主イエスを求めましょう。信仰の成長を求めましょう。


 トマスを受け入れる側のあなたに勧めます。あなたの交わりにいるトマスのために祈りましょう。信仰の前進になる事を共にしましょう。質問に誠実に答えましょう。聖書を一緒に学びましょう。その人を愛しましょう。

 受け入れる仲間、留まるトマス、そういう交わりを育てましょう。