ああ、主よ ネヘミヤ1:1~11

 ネヘミヤ記はリーダーシップについてのすぐれた教科書だ。指導者はどう考え、どう行動したらいいか。困難にどう立ち向かったらよいか、仲間の協力を得る方法は、指導者としての自己管理は、など多くの点で示唆を与えてくれる。

序論としてのネヘミヤ記の背景

 イスラエル人は神に逆らい続けた。その結果、国は二つに分裂、北王国はBC722年に滅び、南王国のユダはからくも残った。けれどもBC605年エルサレムの人々はバビロン捕囚として遠く東の地に連れて行かれた。さらに、BC586年にエルサレムはついに滅亡。
バビロンの次に起きたのがペルシャ。クロス王は539年にユダヤ人に対して帰還命令を出した。それを受け、第1陣と第2陣がエルサレムに戻った。ネヘミヤは第3の集団に属する帰還者の一人だ。
 ネヘミヤは、アルタシャスタ1世(アルタクセルクセス王在位BC465~424年)の献酌官であり、やがてエルサレムに戻り城壁再建の指導者になる。なお、エルサレムの城壁が完成したのはBC445年ごろとされる。

1、 廃墟となったエルサレム 

 エルサレムからやって来た人々の話をネヘミヤは聞いた。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」(3節)
 困難に直面しているなら、あなたは廃墟にいる。他人から馬鹿にされたり、笑われているなら、あなたは廃墟に住んでいる。城壁や門のない町が町としての基盤を失っているように、職を失ったり、築き上げた名誉を失っているなら、あなたは廃墟に座っている。

2、 すべては祈りから始まる 

 祈りが、暗い闇のカーテンを開く鍵になる。ネヘミヤの祈りを分析してみよう。
①嘆きの祈り(4節)
②悔い改めの祈り(6節)
③神の約束に訴える祈り(9節)→申命記30:1~5
④解決を求める祈り(11節)

 やり直しの第一歩はいつも祈りから始まる。廃墟から立ち上がりたいなら、祈りから始めよう。
 「私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、」(4節)とある。困難が大きいとき、「ああ、天の神、主。」(5節)としか祈れない。神の前で注ぎ出すのなら、涙もうめきも立派な祈りになる。
 つらいことがあると人を責め、憎む人がいる。その人は廃墟に住み着いてしまった人だ。ネヘミヤは違う。ユダヤ人の苦難が先祖たちの不信仰に原因があると悟り、先祖を責めるのではなく彼らの罪を自分に引き寄せて罪の告白をした。自分にも非があると、自分の罪を悔い改めた。
さらにネヘミヤは、申命記30:1~5を念頭に神の約束を引き合いに出し、神の助けを求めて祈った。
 

3、私には何が残っているのか

 ネヘミヤがエルサレムの窮状を聞き、どれくらい落ち込んだかは分からない。数日はまともに祈れず、涙とうめきに終始したかもしれない。
その後、祈りが変わり、悔い改めとなり、主の約束に目が向かい、助けを求めるようになるにはかなりの日数が必要だった。けれども、その最後に、祈りの中から大切な自己認識が生まれた。

「そのとき、私は王の献酌官であった。」(11節)

 真っ暗闇に神からのスポットライトが当たった。すべてを失ってもなお残る自分の資源や可能性にネヘミヤは気づいた。
 <私はペルシャ帝国で王の側近として仕事をしている。この立場が、エルサレム城壁再建に役立つだろうか。しかり。私はそのためにここにいる。私を主に捧げよう。>こうしてネヘミヤは、廃墟から立ち上がり始めた。

 あなたの番です。あなたは今、廃墟にいますか。そこから見える大切なものとは何ですか。

 廃墟の経験。それは、あなたが神の栄光を表す都となるために、なくてはならない土台となる。すべてを失って、それでも残る大切なもの。その大切なもののため、精一杯生きていこう。うめきと涙の祈りから始めよう。残されている自分の可能性に気づいて、廃墟を後にして歩き出そう。廃墟を築き直すために。

廃墟からだけ見える青空がある。

本物は廃墟からしか始まらない。