パラダイスはそこに ルカ23:39~43

 主イエスによる救いについて4回シリーズの今日は最終回。主イエスとともに十字架につけられた犯罪者二人について考えてみよう。

1、第1の犯罪人

 自分と向き合えない男が、最初の犯罪人だ。
あなたは、どうだろう。本当の自分の姿に向き合う自信があるだろうか。

「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」(39節)

 十字架に釘で打ち付けられた男は、自暴自棄になった。死刑を見に来た群衆や律法学者が主イエスに投げつけた言葉を聞いて同調した。いっしょになって怒りを主イエスにぶつけた。俺が救われないのはお前のせいだ、とばかりに悪口を言った。

 いつでも、人のせいにする人がいる。親が悪い、先生が悪い、友達が悪い、社会が悪い。自分を見つめる勇気がないので、いつも他人を悪者にしている。それでは、何も始まらない。「ごめんなさい」と言えるなら、人生は新しく始められる。

2、第2の犯罪人

 もう一人の犯罪人は、死を目前にして自分の罪を認めた。死ぬ間際に信仰を持ったのは、聖書の中でこの男ひとりだ。

 「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」

 男は、自分の罪を認めた。主イエスが罪のない方だと知った。男は、ひとつだけ願いごとをした。

 「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(41~42節)

 普通、こんな場面なら、「助けてください」と言うところだ。「罪を赦してください」と願うはずだ。「天国に入れてください」と懇願したことだろう。けれども、この犯罪人は、思い出してくださいと語った。

 きっとこう思ったのだろう。俺には資格がない。罪を赦していただく資格がない。悪い事をさんざん繰り返し、死ぬ間際に「ごめんなさい」では都合がよすぎる。それで、私を思い出してくださるだけでいい、と言ったのだろう。
 資格がないと気づくことが、罪を赦していただくための資格かもしれない。

3、パラダイスに招く主イエス

 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(43節)

 主イエスは、この犯罪人を門前払いしなかった。むしろ、心を低くした男の姿勢を評価したように思える。条件を付けず、今までの生活を叱責することもなく、パラダイスを保証された。

 第2の犯罪人が、主イエスの真の姿に気づいたのはなぜだろう。

 この男が主イエスと一緒にいたのは、たぶん数時間程度だ。その日、十字架を背負って死刑場のゴルゴタまでエルサレム市内を歩き回った期間と、十字架に付けられてからの数時間だけだったろう。
この間、主イエスは、山上の垂訓のような高邁な教えを語ることはなかった。輝く笑顔と澄んだ瞳を男に向けたこともなかった。腰を抜かすほどの奇跡もしなかった。

 第2の犯罪人が見た主イエスとは、弱く、みじめな姿だった。殴られた後が痛々しく残る顔。目も開けられないほど顔は腫れ上がっていたはずだ。茨の冠をかぶせられたので、顔は血だらけ。リンチを加えた者たちが吐き付けたつばが眉毛に付着したままかもしれない。背中は激しい鞭打ちのため、ざくろのように割れ、血潮が流れ落ちていた。十字架の上では、人々の罵倒を聞き続けたが、一言も答えなかった。

 この姿を見て、犯罪人は主イエスが罪のない救い主だと確信した。

 あなたも、試練の中で苦しみうめく時、弱さ丸出しの姿でいるとき、それを恥じることはない。弱さの中に表れる神の力を信じよう。

 「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(第2コリント12:9)

 自分自身と向き合ってください。

 罪赦される資格がないと思うなら、あなたには主イエスの救いを受ける資格があります。主イエスを救い主として受け入れましょう。

 あなたが今、試練の中にいて、揺れ動く心でいるなら、神の力があなたをおおってくださるように祈りましょう。その姿を通して、主イエスをあかしできるように祈りましょう。