恵みと平安 エペソ1:1~2

 これからパウロの獄中書簡の一つ、エペソ人への手紙を学んでいきましょう。今日は、手紙冒頭の挨拶部分を見てみましょう。手紙には定型句がありますが、パウロの決まり文句は、生きた信仰の表れでした。
 
1、神のみこころによる

 「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、……」(エペソ1:1)

 パウロはまず自己紹介をしますが、出身地による説明なら寅さんみたいに「生まれも育ちも葛飾柴又」となります。勤めている会社名や役職で自己紹介をすれば、会社人としての自己認識が高いわけです。パウロは、神との関係でアイデンティティーを確認していました。目的を持って派遣された人、<使徒>、これがパウロの自己認識でした。

 宗教過激派の頭目のようなパウロは、キリスト者を迫害する旅の途中ダマスコで復活の主イエスに出会い劇的な回心を経験、数日後、主から使命を頂きました。

 「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」(使徒9:15)

 会社人間にとって現役引退は厳しい現実になります。たとえ社長として活躍してきた人でも、株主総会で人事刷新が終わると、とたんに秘書も部下も見向きもしなくなり、ただのおじさんになります。でも、神とのかかわりでアイデンティティーを持っている人は、強いです。

 パウロは、神からの使命を頂いた幸せな人でした。あなたの場合、神との関係でいうと、以下の空欄にどんなことばが当てはまりますか。

 神のみこころによる(                )


2、忠実な聖徒

 「キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ」(エペソ1:1)

 あなたは聖徒ですか。クリスチャンなら、のこらず聖徒です。第1ヨハネ1:7にも、御子の血によってきよめられると書かれています。主イエスが身代わりになってくださったゆえに、私たちはキリストのきよさを持つ者とされたのです。聖徒とは、レベルの高いクリスチャンを指すことばではありません、私やあなたのよな普通のクリスチャンのことです。

 エペソは現在のトルコのエーゲ海側の海岸近くにあった町。トルコ半島を犬の顔に見立てれば、ちょうど口の位置にありました。現在は遺跡をとどめるだけで、地名も残っていません。パウロの時代は、商業の町、また、女神アルテミスの神殿の門前町として栄えました。

 第2回伝道旅行でパウロがエペソに立ち寄ったのが52年ごろなら、第3回伝道旅行で滞在したのは(使徒19章)55年、この手紙が書かれたのが60~62年ごろになります。パウロの伝道旅行年代は学者により誤差があるので、あくまでも目安としてご理解下さい。

 パウロは、エペソで例外的に長く滞在しましたが、エペソを宣教上の拠点と把握したのでしょう。

 「これが2年の間続いたので、アジアに住む者はみな、ユダヤ人もギリシャ人も主のことばを聞いた。」(使徒19:10)

 ここで言うアジアとは小アジアのことで、現在のトルコ半島全域を指し、面積で言えば日本の2倍の広さになります。わずか2年の間に、小アジア一帯に福音が伝えられたというのは驚くべきことです。どのようにして、それを実現したのでしょう。
 アルテミス神殿には多くの参拝客がやって来ましたが、パウロ達がこの人たちに伝道し、救われた人を伝道師として訓練し、故郷に帰って伝道するよう派遣することができました。
また、パウロが神学校のようにして、信者を教えるなら、整えられた上で各地に派遣することもできます。この2種類の伝道や教育活動により、広い地域に伝道が可能になったのでしょう。まさに、忠実なクリスチャンの姿です。

 私たちの教会は<幸せの発信地>を目指していますが、エペソ教会はそのお手本になる教会です。エペソ教会はアジア一帯に福音をと伝える発信地となりました。

 現代でも同様のことが可能です。留学のためアメリカに来た人を救いに導き、訓練して、日本に遣わす。また、教会で救われた人を神学校レベルの教育を授け、宣教師のような立場で派遣する。福音を伝えることにより、本当の幸せをもたらすことができます。その幸せの発信地として、主に用いていただきましょう。

 ロン・ヘイファーというバイオラ大学のチャプレンは、新入生に同じような話をするそうです。1934年、ノースキャロナイナでモルデカイ・ハムという巡回伝道者の集会に、ウイリアムという名のおとなしそうな16歳の農家の青年が参加したそうです。彼はそこで、主イエスを信じました。メッセージを語ったハム師も、個人的に救いの祈りを導いた人も、その頼りない青年が後に、世界の伝道者ビリー・グラハムになるなど知るよしもありません。

 あなたには何ができますか。あなたの知識、経験、賜物、発想、時間などを用いてください。神を愛し、人を愛し、福音を伝えてキリストの弟子にするために、あなたができることは何ですか。

3、恵みと平安
 
 「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」(エペソ1:2)

 恵みとは、受けるに値ししない者が受ける祝福。平安とは、神だけが与えることのできる魂の平和。パウロが書いた13の手紙すべての冒頭で使う挨拶が、恵みと平安です。

 恵みといえば、主イエスの恵みを思い出します。ヨハネ1:14によると、「この方は、恵みとまことに満ちておられた。」とあります。ヨハネは、主イエスから恵みを受けたと書いています。(ヨハネ1:16)恵みは、愛、罪の赦し、守り、など多くの意味を内包しています。主イエスだけが与えることのできる祝福と言うこともできます。

 また、平安についても、主イエスの言葉を思い出します。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」(ヨハネ14:27)病気の人、試練の中にいる人、孤独な人、落胆している人に、平安は特に必要です。

 パウロは自分が受けたものを人にも分けたいと思っていました。
 「神の恵みによって、私は今の私になりました。」(第1コリント15:10)

 パウロの挨拶は、挨拶のための空疎な美文ではなりません。パウロが実際に主イエスから受け取った実体のあるものでした。恵みと平安という実体を、エペソの人にも持って欲しかったのです。
あなたも、礼拝でもらった祝福を自分で独り占めしないで、持ち帰って他の人に差し出して下さい。

 あなたにも、神の恵みと平安がありますように。神のみこころの真ん中を進み、福音の拡大のために自分をささげてください。