罪のゆるし  エペソ1:7

 あなたは、ゆるされて生きていますか。今日は、神が下さった霊的祝福の3番目、罪の赦しについて考えましょう。

 「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ1:7)

1、持っているのか?

 今日の聖書箇所、エペソ1章7節を英語の聖書で見てみましょう。
In him we have redemption through his blood, the forgiveness of sins, in accordance with the riches of God's grace. (NIV)

 分かりやすい英語ですね。私たちは持っている、と書いてあります。実は、ギリシア語の原文も「持っている」と書いてあるのです。日本語としては、贖いを持っている、ゆるしを持っていると書くとあまりに翻訳調になるのでそれを避けたのでしょう。
神からの霊的祝福の一つである、罪の赦し、それは、私たちが「持っている」と明確に言えることなのです。あなたは、罪の赦しを持っていますか。

 持っているか持っていないか、これは非常に明瞭な事です。携帯電話を持っているかどうか、それは、今、捜せば分かります。手元になければ、持っていないのです。あれば、持っていると言えます。罪が赦されたかどうかも、パウロの視点でいえば、持っているか、持っていないかであり、中途半端はありません。
「私の罪が赦されているかどうか、わかりません。天国に行けるかどうかも、行ってみなければ分かりません。傲慢不遜にも、自分でそうした事は判断できません。」と言うクリスチャンにたまに出会います。一見謙遜に見えますが、聖書を全く読んでいない人です。神の恵みをまったく知らない人です。

 イエス・キリストを信じた人は、罪のゆるしを持っているのです。「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。」



2、御子のあがない

 主イエスは、私たちを赦すために、特別なことをしてくださいました。ご自分のいのちと身代わりに、私たちの罪を赦してくださったのです。
ですから、罪の赦しの根拠は、私たちの内側にはなく、私たちの外にあるのです。2000年前の歴史的事実、主イエスの十字架にあるのです。

 贖いとは普通、奴隷に身をやつした人を自由にするため大金を払うことを意味します。主イエスが払ってくださった代価は、金でも宝石でもなく、ご自分の命でした。「御子の血による贖い」と書いてある意味はそういうことです。以下に、身代わりの実例を3つ挙げます。

 1942年11月神奈川県横須賀市の踏切で30歳の先生が小学4年生を引率して列車の通るのを待っていました。遮断機のない踏切で、先生は手を広げて生徒をとどめていたが、電車が通過したをきっかけに、一人の女の子が渡ろうとしました。ところが、ちょうど反対からも列車が来ていたので先生は生徒を突き飛ばして助けたましたが、自分は命を落としました。

 1941年7月アウシュビッツ収容所で脱走騒ぎがあり、10人が無作為に選ばれ見せしめとしての餓死刑が言い渡されました。50歳のポーランド人、フランツィシェク・ガオウィニチェクは「私には妻も子もいる」と叫び、命乞いをしまいた。それを聞いた、マキシミリアノ・コルベ神父は、私は司祭で子供も妻もいない、身代わりになります、と申し出ました。ガオウィニチェクは、このとき、神父にお礼を言うができず、目だけで感謝を伝えましたが、自責の念は消えなかったといいます。コルベ神父らは2週間、地下牢で食事と水の配給を断たれたが、神父は祈りと賛美で仲間を励まし続け、最後に薬殺されました。助けられたガオウィニチェクは生き残り、90歳過ぎるまでコルベ神父のことを語り続ける生涯を送りました。

 2007年2月、板橋区の踏切で自殺願望を持った39歳の女性が電車に飛び出したところ、53歳の宮本邦彦巡査部長が助けに入り女性は無事、警察官は死亡しました。

 歴史の中でも、最近の事でも、見ず知らずの人のため身代わりになる人がいます。自分の命を代償に他の人を生かす人の物語は心を打ちます。

 主イエスが命を捨ててくださったことにより、あなたが負うべき罪の罰は終わり、あなたの罪は赦されたのです。罪の赦しを持っているのです。もし、命を助けてもらったあなたが、「罪が赦されているかどうか分かりませんし、言い切るのは傲慢です。」と言ったとしたらどうでしょう。あなたは、主イエスの犠牲をまったく無駄にしているも同じです。
 先生に命を助けてもらった小学生でさえ、「先生は、身代わりになってくださったのです。電車の音を聞くたびに先生のことが目に浮かびます」と文集に書いています。

私たちが主イエスに言うべきことは、「ありがとう」です。


3、御子のうちにあって

 罪のゆるしを持つためには、何をしたらいいのでようか。自分の罪を悔い改めることですか。真面目になることですか。不思議なことに、パウロはここで罪の悔い改めについて触れていません。(誤解のないように言いますが、自分の罪を凝視し、罪を悔い改めることは信仰の成長や御霊の実を結ぶためにはどうしても必要なプロセスです。)パウロは、罪のゆるしが、まるで空から降り注ぐ雨のようだと言っているのです。おどろくべき恵みだと言っているのです。神から送り届けられた霊的祝福だと言っているのです。
人間が為すべき一番基本的なことは、私のために命を捨ててくださった主イエスを信じることです。それが、「御子のうちにあって」という状態です。以下の聖書の言葉に注目してください。

 イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。(使徒10:43)

 昨年12月8日、軍用機F/A18が、サンディエゴのドング・ヨーンさん(37歳)の家に墜落しました。彼は仕事のため不在でしたが、奥さん、2ヶ月になる赤ちゃん、1歳3ヶ月の赤ちゃん、手伝いに来ていた義理のお母さんの4人が炎に包まれ死亡しました。クリスチャンの韓国人ヨーンさんは、妻と子供らを失った悲しみをインタビューに答えて述べた後、緊急脱出で助かった28歳のパイロットについて言及しました。パイロットがこの事故で窮地に立つことがないよう祈っている、彼は我が国の宝だ、彼は自分にできるベストを行った、と。ヨーンさんは、パイロットが謝罪する前に赦していたのです。


→さあ、あなたの番です

・クリスチャンでない方は、主イエスを救い主と信じましょう。
・確信を持っていなかったクリスチャンは、今日の聖書の言葉を受け入れ、自分が罪のゆるしを持っている、と明確に認識しましょう。
・赦しの確信を持っている人は、人をゆるしましょう。

 他人を赦すということについて、最後に一言。ひとり子イエスの死の苦しみと悲しみを引き受ける中で父なる神は私たちを赦されました。これは赦しの原型です。ヨーンさんが、失意の中でパイロットを赦す姿と重なります。私たちの罪が結果的に主イエスを苦しめたのですが、傷を負わされた主イエスが私たちを赦してくださいました。
 相手が謝罪したからゆるすのではありません。相手が誠実だからゆするのでもありません。人を赦すのは、まったくの自発的行為です。見返りはありません。人をゆるすという行為は、痛みとうずきの中でだけできるのです。忘れないでください。人を赦すことができるのは、自分が傷を負った時にしかできないのです。


 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ1:7)