富める青年  マルコ10:17~22

 華麗なファッションに身を包み、流行のヘアースタイルを決め、真っ赤なスポーツカーに乗った若い男が教会に来たとしよう。「どうしたら、あの人の愛を買えるだろうか」と聞いてきたら、私は言ってやりますね、「みそしるで顔を洗って出直してきな」とね。
 愛は金では買えない。同様に、永遠の命も人間の努力や道徳では獲得できない。だが、今日の箇所に登場する男にはそれが分かっていなかった。


1、一期一会

 「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。『尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。』」(マルコ10:17)

 マタイ19:20を見ると、この男が青年であることが分かる。ルカ18:18によれば、職業が役人であり、ルカ18:23からは、大変な金持ちであることも分かる。マルコの福音書を読むと、走り寄り、跪く青年の様子がみてとれる。
 このとき、青年の目はどこに注がれていたのだろう。果たして、主イエスの目を見ただろうか。

 青年は病気でも、盲目でもなかった。いまにも死にそうな家族がいるわけでもない。青年は、ただ永遠の命がほしくて、その獲得方法を尋ねるため跪いた。
 主イエスに出会って、悲しみながら帰ったのはこの青年だけだ。他の大勢の人々は、喜び、賛美し、感謝して帰って行った。他の出会いの場面と何が違うのだろう。

 長血の女の場合と比較してみよう。主イエスの着物に触れればいやされると女は信じて手を伸ばした。その結果、瞬時に痛みが引き、癒された。主イエスは、病気が治ればそれで良しとされず、いやされた人を見つけようとされた。女が出てくると、主イエスは言葉を交わされ、信仰を励ましてから帰された。主イエスは、病気のいやしだけではなく、人との交わりを求めておられた。主イエスは、病気をいやすマシンではないのだ。

 さて、この青年に、主イエスとの心の触れ合いを求めた形跡があるだろうか。自分自身を任せた跡があるだろうか。信じようという姿勢があっただろうか。

 主イエスは、心が触れ合うことを何よりも大事にされた。一期一会の出会いが肝心だと確信されていた。主イエスを信じ自分自身をゆだねる経験が、たとえわずかな瞬間であろうと、その一瞬が永遠のとびらを開く鍵となる。
 
 主イエスは、この青年と意味のある出会いをしたいと願われた。青年の目を開きたいと思われた。それで、今回のような対応を選び、言葉を用いられた。


2、つながり

 青年は知識を求め、主イエスは<つながり>を求められた。

 青年の姿勢は、「永遠の命の入った缶をください」とお金を握って教会に来るようなものだ。礼拝に出るつもりはない、クリスチャンに会うつもりもない、缶を手に入れればそれでいいわけだ。

第1ヨハネの手紙には、永遠のいのちが何かを説明している。

 「あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠の命です。」(第1ヨハネ2:24~25)(参照→第1ヨハネ5:11、12)

 命とは、つながりだ。つながっているから、流れる。永遠の命とは、モノではなく、生き生きした関係の事なのだ。主イエスが命だから(ヨハネ14:6)、主イエスとつながることによって命が伝わってくる。
 
 主イエスはつながりを作ろうとされた。でも青年はそれをはじき返してしまった。


3、欠けたところ

 「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。」(マルコ10:21)

 この表現はきわめて異例だ。青年を見つめる主イエスのまなざしには、特別な思いが込められていた。

 青年は、今まで人からほめられるだけの人生だったかもしれない。「お金があっていいですね。うらやましいですね。」「真面目ですね。熱心ですね。親孝行ですね。宗教心が篤いですね。」と何度も言われたことだろう。
 主イエスは、青年をひとつも賞賛しなかった。十戒の言葉を部分的に引用して、青年の目を開かせようとされたが、律法については落ち度なく守っていると答え進展はなかった。
それで主イエスは、最後の方法をとられた。いつくしんで言われた。青年の本当の姿をあぶりだすために厳しく言われた。

 「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(マルコ10:21)

 「すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。」(マルコ10:22)

 もし青年がこう答えたらどうだろう。主イエスさま、そんなことは不可能です。自分の生活も守りたいです。自分がかわいいです。でも、今までの生き方には満足できません。助けてください。

 主イエスはこの瞬間を待っておられた、と私は想像している。

 自分の無力さと罪深さを嘆き、青年が助けを求めて主イエスの顔を見上げたなら、主イエスのいつくしみをたたえたまなざしに気づいたはずだ。
 
 そうすれば、ザアカイが喜んで主イエスをお迎えしたように、青年も心を開き、自分ができることを自発的に提案したことだろう。

 →あなたの番です

□あなたも、主イエスにつながろう。主イエスを救い主として信じよう。

□すでに信じてクリスチャンになっている人は、もっと主イエスとつながりを深くしよう。

□主イエスは今日、あなたに指摘したいことがあるかもしれない。欠けたところがひとつあると言っておられる。それは、何だろう。

 主イエスは、あなたの欠けたところを補うために来られた。そして、あなたといつまでも共に歩みたいと言っておられる。永遠の命は、ここから始まる。