詩篇6篇  涙の祈り 

 涙といっても色々な涙があります。無念の涙。抗議の涙。幸せの涙。温かい涙。今日の詩篇の涙は、どんな涙でしょう。
 
 詩人は、何らかの処罰を神から受けているように見えます。

「主よ。御怒りで私を責めないでください。
激しい憤りで私を懲らしめないでください。」(1節)

 神からの処罰に納得していますが、その厳しさに音を上げ、助けとあわれみを求めています。病気になっているかもしれません。(2~3節)神が遠くにいるように感じるほどです。(4節)一人で夜を迎えると、とめどなく涙が出ます。(6節)

「私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、
夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。」(6節)

 涙でぐしゃぐしゃの状態ですが、最後の節では涙を拭いて立ち上がっています。

「私の敵は、みな恥を見、ただ、恐れおののきますように。
彼らは退き、恥を見ますように。またたくまに。」(10節)

 いったい何が起きたのでしょう。回復の鍵は何だったのでしょう。


 ポイントは、8~9節にありました。

「不法を行なう者ども。みな私から離れて行け。
主は私の泣く声を聞かれたのだ。
主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。」(8~9節)

 私たちの涙には様々な不純物が含まれています。憎しみ、怒り、事故憐憫、自己弁護が私たちの涙に含まれるうちは、神に受け入れられる涙とは言えません。
 そんな時は、泣きましょう。もっと泣きましょう。主の前で泣きましょう。6節のように泣き続けましょう。そうするうちに、不純物が取り除かれていきます。
 自分は本当に汚れた存在だ、誰が悪いのでも、めぐり合わせが悪いのでもなく、私が悪い、と虚心になって気づくなら、あなたが流す涙は真珠のようにきれいになります。砕かれた心、不純物が取り除かれた涙は、神が喜んでくださる涙です。

 神は預言者イザヤを通してヒゼキヤ王に次のように言われましたが、これも純化された涙だったのでしょう。

「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。」
(イザヤ38:5)

 駅に向かうバスの中でこんな事があったそうです。
冬の寒い日、一台のバスが病院前のバス停に止まりました。大勢の人がそこで乗り込み、車内は満員、室温は不快になるほど急上昇。そのせいで、赤ちゃんが大声で泣き出しました。車内は険悪な雰囲気になりました。次のバス停で何人かが降りましたが、赤ちゃんを抱えた若いお母さんが「降ります」と声を上げて、料金を払おうとしました。
 「ここが目的地ですか」と運転手が尋ねると、「いいえ、でも赤ちゃんが泣くので、降りて駅まで歩きます」と答えました。運転手は、マイクのスイッチを入れ、「このお母さんは、迷惑になるので歩いて駅まで行くと言っていますが、赤ちゃんの仕事は泣くことです、どうでしょう、このまましばらく皆さんとご一緒できませんか」と乗客に語りかけました。数秒の沈黙後、一人が拍手、その後全員が拍手して賛同しました。
 
 あなたは今、泣いている赤ちゃん自身かもしれません。あるいは、赤ちゃんを抱え心で泣いていたお母さんかもしれません。神は、あなたが乗るバスの最良の運転手で、あなたの涙を見ていてくださいます。あなたの涙から、憎しみや自己憐憫、怒り、自己弁護が消え去ったとき、あなたの肩に手を乗せて、こう言ってくださるのです。「ここで人生を途中下車してはいけない、目的地まで行こう。私は、あなたの涙を知っている。あなたの涙は尊いものだ。」

 さあ、あなたの番です。泣きましょう。神の前で泣きましょう。自分の本当の心が見えるまで涙しましょう。あなたは、涙の向こうにおられる神をきっと見い出すことでしょう。

 「主は私の泣く声を聞かれたのだ。」