エペソ2:11~22 平和を実現する

 不思議です。
パウロはエペソ2章で平和について語っているのですが、平和になるための段取りを一つも書いていないのです。どうしたら平和を実感できるのでしょう。

1、対立

 人間にとっての最大の問題は罪です。パウロは2章の前半でその解決方法に言及し、神の恵みによって罪が赦されると説明しました。話の筋立ては、かつての罪の姿、「しかし」の神、恵みによる救い、そして、救われた者の歩み方という順番でした。

 パウロが取り上げた次の問題は、対立です。人間社会の問題の大半は、人と人との対立です。あなたは誰かと対立していますか。誰かを憎んでますか。誰かの一挙一動に腹が立ちますか。

 11節以降のパウロの枠組みは2章の前半部分とそっくりです。ユダヤ人以外の異邦人は神から離れ、神との約束の外におり、偶像礼拝する者でした(11~12節)。「しかし」の神は、そうした異邦人を軽蔑せず、ご自身のそばに引き寄せてくださいました。

 「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」(2:13)

 神の民として選ばれたユダヤ人は、選民意識のゆえに異邦人を見下げて、付き合いをしませんでした。ですからユダヤ人と異邦人の間には争いや差別がありました。見えない壁がありました。

 「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2:14~16)


2、平和は主イエスの中にある

 平和になる具体的な方策、和解への段取り等は一切書いてありません。そのかわり、平和がどこにあるかを指し示しています。

 平和は作るものではない。主イエスの中にある平和がある。まるで薄絹のベールが空から降りてくるように、平和は主イエスの十字架から私たちのもとにやってきて静かに私たちを覆うのです。

 「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし。ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」(14~15節)

 もう一度言います。平和は、そこにあるのです。主イエスの十字架を見上げるなら、その平和があなたのものになります。
 私のような罪人のために主イエスは死んでくださったのか。感謝します、イエスさま、という心を持つなら、他者に向かう心が自然と穏やかになります。復讐を誓い、大きな石を握りしめて生きている人がいますが、主イエスの愛を十字架に見ることができるなら、石を捨てたくなります。空になった手を相手に差し出して握手することも可能です。

 あなたには、憎んでいる人がいますか。近づいただけで、無性にイライラさせられる人がいますか。絶対に赦すもんかと決めている人がいますか。
 そういう人は、十字架を見上げましょう。

 18節以降は、ユダヤ人と異邦人が一つになると語られています。一つの家族になり、一つ建築物として組み上げられるというのです。

 「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」(エペソ2:18~22)

 1974年12月20日、フロリダで10歳の少年クリス君が誘拐され、銃で撃たれましたが一命は取りとめました。混乱していたクリス君は、犯人の顔写真を見せられても断定できず、犯人は無罪になりました。事件から22年後、犯人が自白したと警察から知らされました。32歳になっていたクリスさんは犯人の男性と対面しました。高齢と衰弱、失明状態になった77歳の犯人に「ゆるしてほしい」と言われ、「もう、とっくにゆるしているよ」と答えました。クリスは毎日のように彼を訪問し主イエス・キリストの十字架を伝え信仰に導き、3週間後犯人は亡くなりました。
 クリスは言います。被害者として生きるか、神の恵みを受けた者として生きるか、二つのチョイスがあったといいます。何度もアイスピックで胸を突かれ、頭を撃たれても片目を失明しただけで弾は脳に触れず、野外で6日間気を失っていたのに救出されたことを、神の恵み、神の奇跡と言わずにいられましょうか。私は守られた、恵みを受けた、奇跡の中にいたと確信したのです。だから犯人と友達になれたのです。

 主イエスは、敵意を廃棄される方です。隔ての壁を取り除く方です。主イエスにこそ平和があるのです。

 壊れた関係を修復したですね。家族とか、身近な人とは、特に心通わせたいですね。あきらめないでください。相手を必要以上に注視しないことです。まず主イエスを見上げるところからすべてが始まります。

 →あなたの番です
□あなたが対立している人は誰ですか
□キリストを見上げましょう。平和があなたを覆います
□キリストが命を捨てたほどの他者を愛しましょう