マタイ16:13~19 教会につながる

 信仰の羅針盤シリーズの最終回です。
 安定したクリスチャン生活を送りたいなら、教会にしっかりと繋がることです。

1、信じる事と教会

 信仰を持つことは、個人的で、内面的なものです。けれども、信仰は他者とのつながりなしには成り立たない、という面も備わっています。そういう意味で、マタイ16章はとても興味深い箇所です。

 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。(マタイ16:13~17)

 ペテロの信仰告白の場面として有名な箇所ですね。最後の部分に注目してください。主イエスは、あえてペテロの本名シモンと呼びかけています。あなたの信仰は、あなたの悟りや知識や経験によったのではなく、父なる神に導かれたものだと指摘されました。「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」これは、感動を持って聞き取りたい内容です。

 第1コリント12:3の視点を加えると、信仰告白は聖霊によるものだと理解されます。そうすると、私たちの信仰は、父と御子と聖霊の助けの中で初めて成り立つものだと分かります。信じているなら、あなたは三位一体の神との交わりの中にいるのです。

 次に目を留めたいのは、教会です。

 主イエスは、シモンの信仰告白を聞いて、それに応答するように、シモンをペテロ(岩)と呼びました。これは、いわば、主イエスの側からシモンに対する「信仰告白」とも言える内容です。不完全で、欠けの多いシモンを信仰者としては巌のような者と認めてくださいました。ちょっと気恥ずかしいですね。その信仰の上にご自分の教会を建てると主イエスは言われました。

 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。(マタイ16:18)

 世界中にはたくさんの組織がありますが、主イエスが造れた組織は教会だけです。主イエスは、国にも、会社にも、学校にも、国連にも期待しておられません。教会にだけ期待しておられるのです。信じた人には、教会が必要なのです。クリスチャンが教会に繋がって生きるようになったのは、主イエスのプランなのです。

 リック・ウォレン牧師は、私たちが生まれて来た目的の一つは、教会に繋がることだと明言しています。

 あなたは、教会に繋がっていますか。
 特定の分野に専門的に関わる超教派団体が数多くありますが、それは、教会の腕として働く機関であり、教会ではありません。教会に地盤を置いて、超教派の働きに関わりましょう。
 自称「無教会」の人は、独善的になりがちで、教会評論家にしかなれません。評論家が1万人いるより、主イエスのために汗を流す10人のほうが意味があります。
 気ままに、あっちに行ったり、こっちに行ったり、という教会渡り鳥になってはいけません。それでは、クリスチャンの醍醐味は体験できません。

 一つの教会にしっかり繋がりましょう。雑多な人がいる教会。お年寄りも赤ちゃんもいる教会。ちょっと苦手なタイプの人がいる教会。そこに、大きな意味があります。そこに、成長の道が隠されています。そんな教会につながることが、どうしても必要なのです。



2、つながると、命がめぐる

 主イエスは、ヨハネの福音書15章で、つながることの大切さをぶどうの木のたとえで説明しています。

 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネ15:4)

 聖書を長年読んで来ましたが、この箇所は、教会にとどまりなさい、と読み替えても、同じ意味になると私は考えるようになりました。なぜなら、教会はキリストの体だからです。(エペソ1:23、コロサイ1:18)

 弱くて小さな枝でも、幹であるキリストにつながるなら、主イエスの命があなたの中を巡るようになります。主イエスのいのちが、あなたを生かすのです。

 また、私は17歳で信仰を持って以来、いくつかの教会に関わり、たくさんのクリスチャンを見てきましたが、教会に結びついていることが、健全なクリスチャン生活に不可欠だと確信を持って言えます。

 私は、牧師の立場を離れ、信徒として5年間、教会につながったことがあります。その時の体験を思い出しても、教会は本当に素晴らしいものだと心から言えます。その時、昼食会の後の掃除とごみ出しを自分の奉仕にしました。主に仕える喜びを知りました。
 主イエスを信じる人たちに触れるだけで励まされました。祈ってくれる人がいて、支えられました。共に、泣いてくれる方たちによって生きることができました。


 日本の教会は、暗い、小さい、つまらない、などと陰口を言われます。特に、アメリカの大きな教会を見ていると、日本の教会がくすんで見えます。
 でも、そうした見方は浅薄です。私も若いころ、日本の小さな教会を見下げたり、有名な牧師をヒーローに見立て、名も無い牧師を無視していた生意気な時期がありました。ゼロからの開拓伝道をする立場になってみて初めて日本の教会の現状に気づきました。
 日本の教会の礼拝出席平均は30数名で、そんな教会が全体の半数を超えています。10数名の教会もたくさんあります。むしろ今、そうした小さな教会、名も無い牧師先生の長年にわたる祈りと伝道を尊いものとして心から尊敬しています。福音の灯台となって地域に留まっていることは何にも増して価値があります。
 

 完全な教会など地上にありません。あなたが、そこにいれば、完全でなくなるからです。(失礼)素晴らしい教会があったとしても、私がそこに加われば不完全になってしまいます。

 地上の教会は欠けだらけです。でも、主イエスは、教会にだけ期待しておられるのです。教会だけを信頼してくださっているのです。

 どんなことがあっても、教会につながり続けましょう。教会を愛しましょう。あなたの実家としましょう。
 
 今までシリーズで話してきた、神を愛す、人を愛す、福音を伝える、人を育てる、これら4つの要素は、教会につながることによって実現します。教会につながることがクリスチャン生活の要なのです。

わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)


 あなたの番です。
 □しっかりと一つの教会に所属してください
 □教会のスモールグループに加わりましょう
 □教会で何かの奉仕をしましょう
 □教会批評家にならず、教会を愛す人になりましょう