ルツ1章 主の御手

聖書を理解し、神の心を知る一番の近道は、聖書そのものを心を静めて読むことです。ルツ記の学びは、バイブルリーディングという態度で進めていきたいと思います。

1、異国での悲嘆(1~5節)

 さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。その人の名はエリメレク。妻の名はナオミ。ふたりの息子の名はマフロンとキルヨン。彼らはユダのベツレヘムの出のエフラテ人であった。彼らがモアブの野へ行き、そこにとどまっているとき、ナオミの夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして、彼らは約十年の間、そこに住んでいた。しかし、マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子どもと夫に先立たれてしまった。

 ナオミは、夫と息子二人でモアブに転居しました。モアブは死海を挟んで西側にある外国で、一家全員で移民したと言っても良いでしょう。
 10年ほどの間に、ナオミは夫に先立たれ、現地の女性と結婚した息子たちも若くして亡くなり、ナオミだけになりました。残ったものは、悲しみ、孤独、不安でした。

 あなたは、今日、悲しみと孤独と不安に囲まれていますか。それなら、あなたは、現代のナオミです。


2、帰途で気づいた事(6~9節)

 そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。そこで、彼女はふたりの嫁といっしょに、今まで住んでいた所を出て、ユダの地へ戻るため帰途についた。そのうちに、ナオミはふたりの嫁に、「あなたがたは、それぞれ自分の母の家へ帰りなさい。あなたがたが、なくなった者たちと私にしてくれたように、主があなたがたに恵みを賜わり、あなたがたが、それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように。」と言った。そしてふたりに口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。

 ナオミは故郷に帰ることにしましたが、その帰途に熟慮し、自分の将来の安定よりも、同行していた二人の嫁の幸せを優先することにしました。8節「自分の母の家へ帰りなさい」、9節「それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように」
 自分の最も近しい者の幸せを第一にする。これも、一つの選択です。

 ナオミは、このような悲しみの中でも、嫁への感謝を忘れません。8節「あなたがたが、なくなった者たちと私にしてくれたように」 
 ここまでの箇所にも、道すがらも、ナオミの不満は書かれていません。もし、ナオミが神に不満を持っているなら、主の「恵み」(8節)があるようにと、素直に言うことはできないでしょう。ナオミは、どんな中でも主の恵みを数える人、主の恵みがあるようにと祈る人でした。

 →あなたの番です。一番親しい者は誰ですか。その人に神の恵みがあるように祈りましょう。


3、姑ナオミの思いやり(10~14節)

 ふたりはナオミに言った。「いいえ。私たちは、あなたの民のところへあなたといっしょに帰ります。」しかしナオミは言った。「帰りなさい。娘たち。なぜ私といっしょに行こうとするのですか。あなたがたの夫になるような息子たちが、まだ、私のお腹にいるとでもいうのですか。帰りなさい。娘たち。さあ、行きなさい。私は年をとって、もう夫は持てません。たとい私が、自分には望みがあると思って、今晩でも夫を持ち、息子たちを産んだとしても、それだから、あなたがたは息子たちの成人するまで待とうというのですか。だから、あなたがたは夫を持たないままでいるというのですか。娘たち。それはいけません。私をひどく苦しませるだけです。主の御手が私に下ったのですから。」彼女たちはまた声をあげて泣き、オルパはしゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツは彼女にすがりついていた。

 ナオミは分かれの挨拶として口づけをしましたが、二人の嫁は離れないと泣きました。ナオミは、「わたしの娘たち」(新共同訳)と嫁たちに呼びかけ、親愛の情を示します。ユーモアを交え、合理的に考えさせ、12節で「帰りなさい」ときっぱりと命じました。

 ナオミは嫁たちとは悲しみを分け合ってきたのでどんな愚痴も神への不平も嫁たちに言えたでしょう。けれでも、13節でナオミは、「主の御手が私に下ったのですから」とだけ述べました。
 普通、幸せと喜びがあるときに主の御手を感じます。ナオミは、苦しみと悲しみの時にも主の御手を覚えています。どんな事態の中にも主の御手がある。ナオミは、涙で祈る中でも、主の御手を覚えていました。
 運命がもしあるならそれは冷たいものでしょう。でも神の御手は温かいのです。不幸、悲嘆、ため息、理解不能の悲嘆に暮れている時でさえ、神の御手は温かいのです。私はそう感じて生きてきました。

 あなたの上に、今、神の御手がありますか。


4、ルツの決意(15~18節)

 ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。」ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった。

 16節「あなたの神は私の神です。」ルツの信仰は、物事がうまく行ったから神を信じるというご利益信仰ではありません。苦難を経験した姑ナオミをルツは見てきましたが、ナオミを生かしている神がいると分かったのです。ルツ自身も夫を失う苦しみを経験しましたが、それでも、まことの神がおられると信じたのです。今、神はルツの神になりました。

 「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。」Where you go I will go, and where you stay I will stay.(クリス・トムリンのプレイズソングを思い出します。このみことばがそのまま繰り返しのフレーズになっています。)ルツの言葉は、神への徹底的な献身表明と受け取ることもできます。

 ところで、放蕩息子と父のたとえ話は、父の愛がテーマで、神の愛と人間の悔い改めを教えてくれますね。今日の箇所、ルツ記1章は、母の愛が中心を貫いています。嫁の幸せを優先する姑と義理の母への献身が、神の愛と神への従順を教えてくれて興味深いです。

 あなたの番です。あなたは神に導かれていますか。神はどこに導いておられますか。
 

5、ナオミの動揺(19~22節)

 それから、ふたりは旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで騒ぎ出し、女たちは、「まあ。ナオミではありませんか。」と言った。ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て、大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着いた。

 ナオミの信仰に動揺がみられます。どうしたのでしょう。原因は、人の目、うわさ、です。あの人ナオミなの、やつれたわね、夫は死んだらしいよ、自慢の息子も死んだらしいね、外国人の嫁しか連れて帰れるものはないようだね、昔の栄光いまは無しだね。こうした噂や好奇の目にさらされ、ナオミは本来の落ち着いた姿を忘れ、自暴自棄、やぶれかぶれ、居直りの心境になったと思われます。
 あなたは、今日、人の目を気にして落ち込んでいませんか。あなたが気にすべき事は人の評価ではありません、主イエスの温かい眼差しです。主イエスは、「しっかりしなさい、わたしだ」マタイ14:27)と言っておられます。

 ルツ記は、こうして暗く長く寒い夜のような状況から始まります。かすかな希望は、この時が大麦の刈入れの時期であったということです。ここにもう一つの神の御手を見出すことができます。

 悲しみに押しつぶされそうな私たち、噂や人の目に弱い私たちです。どんな中でも主の恵みを願い、主の御手に気づく人になりたいですね。そして、どんな境遇でも、どこまでも主について行く人になりましょう。

 「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(ルツ記1:16)