ルツ記2章 はからずも

1、ちょうどその時  (1~7節)

 ナオミには、夫の親戚で、エリメレクの一族に属するひとりの有力者がいた。その人の名はボアズであった。モアブの女ルツはナオミに言った。「どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。」すると、ナオミは彼女に、「娘よ。行っておいで。」と言った。ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように。」と答えた。ボアズは刈る者たちの世話をしている若者に言った。「これはだれの娘か。」刈る者たちの世話をしている若者は答えて言った。「あれは、ナオミといっしょにモアブの野から帰って来たモアブの娘です。彼女は、『どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください。』と言い、ここに来て、朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」(ルツ記2:1~7)

1)小さな事から始める
 悲嘆に暮れた人、すべてを失った人は、何をしたら良いのだろうか。それは、小さな事を始めることです。
 2節「どうぞ、畑に行かせてください」「落ち穂を拾い集めたいのです」貧しい人にゆるされた労働(レビ23:22)である落ち穂拾いに出かけました。今で言えば、最低賃金の仕事を進んで始めたという事です。穂を持ち帰れば、食べていかれます。
 
 悲しみや苦しみに出会った人が、居直る、乱暴に振舞う、依存的な行為に流される、そういう事はよくあることです。そんな時だから、小さな事を始める必要があるのです。だから、小さな事は大きな事なのです。小さな事は勇気あることなのです。

 あなたに勧めます。小さな事を始めましょう。小さなレンガを一つずつ積み上げましょう。
あなたにとって、小さな事とは何ですか。

2)偶然に見えること
 3節「はからずも」、新共同訳では「たまたま」、4節では「ちょうどその時」と書いてあります。なにげなくルツが立ち寄った畑が、ナオミの夫の親戚で、ナオミの土地を買い戻せる資産家でした。果たしてこれは偶然なのでしょうか。

 私たちが偶然だと知覚できるのは氷山の一角に過ぎません。私たちが気づかない神の愛と配慮に裏打ちされた「偶然」に囲まれて私たちは生かされているのです。

 あなたへの質問です。主が今、明らかに導いておられる事がありますか。主は、あなたをどこへ導いていますか。あなたにとっての偶然、「はからずも」の体験を良く見つめ、主の導きに気づいてください。偶然に、方向性が示されているかもしれません。
 

2、隠れた行為はやがて知られる (8~16節)

 ボアズはルツに言った。「娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。刈り取っている畑を見つけて、あとについて行きなさい。私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました。のどが渇いたら、水がめのところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい。」彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。」ボアズは答えて言った。「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」彼女は言った。「ご主人さま。私はあなたのご好意にあずかりとう存じます。私はあなたのはしためのひとりでもありませんのに、あなたは私を慰め、このはしためにねんごろに話しかけてくださったからです。」食事のとき、ボアズは彼女に言った。「ここに来て、このパンを食べ、あなたのパン切れを酢に浸しなさい。」彼女が刈る者たちのそばにすわったので、彼は炒り麦を彼女に取ってやった。彼女はそれを食べ、十分食べて、余りを残しておいた。彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、ボアズは若者たちに命じて言った。「あの女には束の間でも穂を拾い集めさせなさい。あの女に恥ずかしい思いをさせてはならない。それだけでなく、あの女のために、束からわざと穂を抜き落としておいて、拾い集めさせなさい。あの女をしかってはいけない。」(ルツ記2:8~16)

 ボアズはルツに直接話しかけ、8節「ここにいなさい」とボアズの畑で続けて働くようにと勧めました。ルツは、外国人である自分への破格の好意に驚き、理由を尋ねました。すると、11節、「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと」、「私はすっかり話を聞いています。」ルツが誠実に生きた証をボアズはすべて知っていました。

 隠れた行為は、結局人に知られることになります。

 隠れた良い行為には主の報いが訪れます。12節、「主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」主の御手と、ボアズの指示により、ルツは抱えきれないほどの大収穫、1エパの大麦を抱えて帰宅することになったのです。

 あなたの隠れた行為はいつか人に知られます。良い行いも悪い行いも、いつか人に知られます。その事は、今週のあなたの生き方にどんな影響を与えますか。


3、差し込んだ希望  (17~23節)

 こうして彼女は、夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。拾ったのを打つと、大麦が一エパほどあった。彼女はそれを持って町に行き、しゅうとめにその拾い集めたのを見せ、また、先に十分食べてから残しておいたのを取り出して、彼女に与えた。しゅうとめは彼女に言った。「きょう、どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いたのですか。あなたに目を留めてくださった方に祝福がありますように。」彼女はしゅうとめに自分の働いてきた所のことを告げ、「きょう、私はボアズという名の人の所で働きました。」と言った。ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。」それから、ナオミは彼女に言った。「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。」モアブの女ルツは言った。「その方はまた、『私のところの刈り入れが全部終わるまで、私の若者たちのそばを離れてはいけない。』と私におっしゃいました。」ナオミは嫁のルツに言った。「娘よ。あの方のところの若い女たちといっしょに出かけるのは、けっこうなことです。ほかの畑でいじめられなくても済みます。」それで、彼女はボアズのところの若い女たちのそばを離れないで、大麦の刈り入れと小麦の刈り入れの終わるまで、落ち穂を拾い集めた。こうして、彼女はしゅうとめと暮らした。(ルツ記2:17~23)

 ルツ記の世界と現代に生きる私たちにはいくつかの共通点があります。超自然的な奇跡がない。モーセやエリヤのような際立った信仰者が登場しない。神が人に直接声をかけない。けれども、神は確かに生きて働いておられる。それで、ルツの物語は私たちにとても身近なものなのです。

 ナオミは、ルツの持ち帰った収穫に驚き、20節で、次にように語りました。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。」「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。」
 ナオミは、この偶然と見える出来事の背後に主の御手があると理解し、主を賛美し、ボアズの祝福を祈りました。失った土地をぼあずに買い戻してもらえるという希望が出てきたのです。

 苦難の中で小さな一歩を歩き始める。人に隠れた小さな一歩が人に知られ、人々の評価が変わる。偶然に見える出来事から、人との出会いやつながりが起き、やがてそれが私たちの生涯を変えることがある。ルツの人生はそうでした。あなたも、あなたのルツ記を書きましょう。

 あなたの番です。誰が見ていなくても、小さな一歩を捜して歩み出しましょう。神が導かれる出会いのチャンスをしっかりつかみましょう。

 「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。
 あなたは、その翼の下に身を避ける。
 主の真実は、大盾であり、とりでである。」(詩篇91:4)