ルカ15:11~24 神は捨てない

今日から、聖書のエッセンス、「福音とは何か」というシリーズを始めます。取り上げる箇所は、ルカの福音書から「放蕩息子のたとえ」です。ポイントは3つあります。1、人間の本質は何か。2、どうしたら神に立ち返れるか。3、神とはどんな方か。

1、人は自己中心で欲望追及の毎日を送っている

弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。(ルカ15:12~13)

弟息子は、財産の生前贈与を父に求め、聞き入れられました、手にしたことのない大金を持ち、意気揚々と都会に出かけました。そこで、放蕩三昧の暮らしをしました。酒を浴びるほど飲み、宴会騒ぎをし、不道徳な行為をすることを指します。30節で兄が言及していますが、性的にみだらな行為にのめり込んだようです。
主イエスが取り上げた最初のポイントは、人間が自己中心で、欲望追及を目指す存在だということです。

人は自己中心です。それは写真の見方ですぐに明らかになります。5~6人で写真を撮ってもらいます。どの写真がいい写真かみんなで話すと、「これが良い写真」だとすぐに分かります。それは、自分が良く撮れている写真のことです。集合写真を見るとき、必ず最初に自分の顔を捜します。人間は、自己中心な生きものなのです。

また、人間は、欲望を追い求める存在です。外国に一人で出張し、仕事が終わって現地で4日間の休暇がもらえたとします。カジノで20ドルだけ使いましたが、驚くことに100万ドルもうけました。あなたは一人、休暇もあるし、金もある。あなたなら、どうしますか。何を考えますか。放蕩息子のたとえが、がぜん現実味を帯びてきます。

何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。(ルカ15:14~16)

 現代風に言えば、世界恐慌の到来です。就職口がない。食料が極端に少なくなり、高騰して流通しない。弟息子は知人を訪ねますが、劣悪な労働環境で、食べ物はもらえず、寝る場所だけを手にいれましたが、空腹で死にそうでした。



2、どのようにして神に立ち返ればいいのか

 私達人間は、欲望追及の人生を夢見ていますが、ある日、我に返ります。我に返る条件は、第一に、みじめな失敗をすること。第二に、金がなくなること。第三に、孤独になり、心の理解者が誰もいなくなることです。

 我に返って、神のもとに戻りたいと人は願います。でも、どうしたらいいのか分かりません。放蕩息子の祈りは、神に帰る方法を教えてくれます。

しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』(ルカ15:17~19)

弟息子は、二つの悔い改めをしています。天に対しての悔い改め、もう一つは、父親に対する悔い改めです。真実味があって、謙虚な言い方をしています。私たちも、同じ祈りをすれば神に立ち返ることができるのです。

弟息子は、自分の放蕩生活で、父親の顔に泥を塗ったことに気づきました。父親が汗水たらして蓄えた財産をあっという間に失った親不孝者だと悟りました。こんな人間は、息子の資格を失ったと本気で考えたのです。



3、まことの神は、走り寄る神

 弟息子は、実家に戻りました。ぼろぼろの心とぼろぼろの着物で帰りました。息子として迎えてもらうためではなく、きちんと謝罪することと、雇い人にしてもらう事だけを念頭において帰りました。

父親は毎日のように遠くに目を凝らし、息子の姿を捜していたようです。失敗するが、帰って来ると信じていたようです。父親が走り寄り、息子の首を抱き、何度も口づけしました。

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。(ルカ15:20~24)

走り寄り、抱きしめる父親。この父親の姿は、どの時代でも、どこの国でも、あり得ない姿です。こんな父親は地上にはいません。主イエスは何を言いたいのでしょう。これが、神なのだと語っておられるのです。

 日本からアメリカの大学に留学するにはかなりお金がかかります。私立大学で生活費も高ければ、年間300万円はかかるかもしれません。ESLのクラスに入り英語の勉強をするので、日本人留学生は卒業するまで5年くらいかかりますから、総額1500万円になります。
たとえば、卒業前に麻薬に手を出し、逮捕され、国外追放になって日本 に戻ったとします。父親は何と言うでしょう。卒業できずに退学になり、1500万円は無駄になったと話せば、父親は、どんな反応を示すでしょう。あなたを 殴るか、放心状態で天井を見上げるか、肩を落としてため息をつくかでしょう。
こういうたとえで話せば、放蕩息子の父親がいかに普通でないかが分かるでしょう。

息子がごめんなさいと言ったから、父親は抱きしめたのですか。いいえ。息子が何かを言う前にすでに抱きしめていました。神は、無条件で、両手を広げ、あなたの帰りを待っています。

息子は準備していた言葉(18節)を最後まで言えましたか。いいえ。言えません。

父親は、息子が言おうとしている言葉が分かったようで、あえて言葉を遮りました。最高の洋服と指輪と靴の用意と、パーティーのしたくを使用人に命じています。お前は、靴をはけない奴隷ではない。息子の印である指輪をもう一度与えよう。お前は、私の子供だ。誰が何と言おうと、私の子だ。

主イエスを信じた人を「神の子」と聖書は呼びますが、その言葉の意味を深く考えさせてくれる放蕩息子のたとえです。

私も、放蕩息子のたとえのような歓迎と食事を受けたことがあります。今も、その時のことを思い出すと涙が出ます。さあ食べなさい、着なさい、使いなさい、とたくさんの人が私を応援してくれた日々を私は決して忘れません。

あなたがどんな人生を送ったとしても、帰るところがあります。私は、強い確信をもってそう言えます。神はあなたを待っておられます。さあ、帰りましょう。放蕩息子のように祈りましょう。

→あなたの番です。
□自己中心、欲望追求の人生を止めましょう。
□二つの悔い改めをして、神に戻りましょう。
□無条件に赦し受け入れる神を知ったなら、あなたも誰かを両手を広げて受け入れましょう。