ヨハネ4章1~54 サマリヤの女



 主イエスは、人の心の井戸を深く深く掘ることのできる方です。サマリヤの女との会話を見ると、その意味が分かるでしょう。

1、3つの層

主イエスは、サマリヤの女に「わたしに水を飲ませてください。」(7節)と話しかけました。飲み水についての世間話が、やがて、人の心を本当に満たす<いのちの水>についての話題に変わっていきます。

ヨハネの福音書4章を読んでいると、人の心は3つの層からできているように思えてきます。第1の層は表面的な満足の層。第2の部分は精神的満足の部分、第3の部分は神に満たしてもらう層。

 多くの人は、表面的幸せを追いかけています。ビジネスが成功すれば満足、金が入って幸せ、形だけは結婚できれば嬉しい。表面的な幸せは一時的満足なので、必ず渇きを引き起こします。それは、CSルイスのナルニア国物語で、雪の女王がエドモンドに与えるプリンに似ています。食べると天にも昇るほどおいしいのですが、とたんに飢餓感に襲われます。

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13~14節)

 次に主イエスは、サマリアの女の心を深く掘り下げていきます。夫を連れてきなさいと命じました。女の心に空虚感を与える問題を直視させます。女が5人の男と離婚し6人目の男と住んでいる、と主イエスは指摘(16~18節)、精神的レベルにおいても満たされていないことを気づかせます。精神的レベルの満足は、この女のように愛がテーマになったり、正義、真実、生きがいなどが取り扱われます。

 最後に主イエスは、霊の部分を取り扱いました。礼拝において大事なのは、礼拝する場所ではなく、霊だと主イエスは言われました。霊とは、神とつながる人間の心の最も深い部分と理解できます。人の真の幸せはこのレベルで決まります。いのちの泉はこのレベルにあります。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(24節)

まこと(アレーセイヤ=真理)は、神の真理、神のみことばの真理と捉えることができます。ユダヤ人は、聖書全部を持ち神のみこころを知っていましたが、肝心の心、神とつながる霊の部分を失っていました。サマリヤ人は、モーセ五書だけを持ち、異教の神々の習慣を取り入れて、礼拝における真理を失っていました。
霊の部分で神と心をつなげ、みことばの真理に根づいた礼拝をしましょう。ですから、今日のメッセージは感動したとか、つまらなかったと言ってふんずり返っている姿勢は礼拝者の姿勢でないことは明白です。

 サマリヤの女は霊の目が開かれ、主イエスがメシヤではないかと考え始めます。主イエスが「あなたと話しているこのわたしがそれです」(26節)と明言されましたが、ギリシア語ではエゴー・エイミ、英語ならI amです。出エジプト記3:14「わたしはある」(I am)という神の答えを彷彿させます。主イエスは、神であり、まことの救い主なのです。


2、畑は色づいている

あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。(35節)

神を求める人がたくさんいるのにあなたたちは気づいていないと主イエスは警告されました。サマリヤの女はせっかく汲んだ水を井戸に置いたままで町に入り(28~29節)、主イエスとの出会いを伝えると町の人はその言葉で主イエスを信じました。畑は色づいていたのです。

さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。(39節)


3、ありえない出来事

 カペナウムの役人は、息子の病気のいやしを求めて主イエスのもとに来ました。彼の頭にあったのは、主イエスが自宅に来てくれて、息子の上に手を置き、厳かな祈りをささげ、いやしてくれることでした。役人は、主イエスを使用人の一人のように使っています。役人は自分の立てた計画の実行だけに熱心でした。それで、主イエスは、あえて次にように言われました。

「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。(50節)

彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、七時に熱がひきました。」と言った。それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている。」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。(51~53節)

54節によれば、これが第2のしるしです。主イエスは、死にかかっている病人をいやすことのできるお方です。遠く離れている人の病気も、言葉を発するだけで癒すことのできる神です。それで私たちは、遠くにいる家族や友人の病気のいやしを祈り求めます。

主イエスは、私たちの想像を超えた形でみこころを実現されます。主のおことばを信じて、私たちの予想外の神のみわざを体験しましょう。

ピーターとシャロンの夫婦には小さな女の子が二人いました。普段出張の多いピーターはこの日も早朝から飛行場にいて、「おはよう、元気かい」と妻に電話してきました。妻は、「大丈夫」と口では言いましたが疲れが極限に達していました。シャロンは汚れた食卓を見ながら、涙を流していました。40分後、子供たちの着替えを手伝っているとドアが開き、ピーターが立っていました。僕を必要としているのはニューヨークではなくて、君だよ。部長に言って、休暇をもらったよ。その日は、彼と妻と子供たちで公園に行って遊び、夜は子供たちが寝てから夫婦でいつまでも語らいました。30年たっても、シャロンはこの日のことは忘れません。

主イエスが、あなたの人生のドアを開けて、君のために来たよという語りかけを聞いて下さい。主イエスは、あなたの心に湧きあがる泉を与え、あなたの生活を生き生きさせ、あなたの問題を思いがけない方法で解決してくださる方なのです。

→あなたの番です。
□心の一番深い部分で主イエスとつながりましょう
□畑は色づいて、収穫の時です。
□主イエスの言葉を信頼し、思いがけない解決を信じましょう。