ヨハネ5:1~47 歩きなさい


 結婚していても、家族があっても、たくさんの友人に囲まれていても、私たちは突き詰めると皆、孤独です。ひとりぼっちに気づくと自分に自信がなくなります。私たちは誰か、励ましてくれる人を待ち望みます。
 主イエスは、そんな私たちを励ましてくれる方です。歩き出す力を下さる方です。


1、よくなりたいか

 主イエスは祭りのためエルサレムに上っておられたが、38年間病気で歩けない男とベテスダの池で出会った。

そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」(ヨハネ5:5~6)

 「よくなりたいか」と主イエスに尋ねられて、男はイエスでもノーでもない答えをした。すべて他人が悪い、運命が悪い、自分は被害者だ。彼は、主体性を失った否定的な男だった。

病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」(7節)

イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」(8節)

この男は、誰かに似ていませんか。それは、私であり、あなたです。主イエスは、今日も、同じ質問をされます。「よくなりたいか」あなたは何と答えますか。
あなたにとって、38年間の病気とは何でしょう。絶対に無理だ。解決はありえない。変わりようがない。それは、一つの強固な信仰のようなものです。
そこから、一歩出ましょう。人のせいにしない。自分の能力や可能性だけで計算しないことです。よくなりたいです、と主イエスに答えましょう。
 主イエスは言われます。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」主イエスを信じて歩き出せば、あなたは変わります。道は開けます。信じましょう。

アメリカ人で、ある地位の高い方に、困難な依頼をする必要が発生しました。普通に考えると「無理だよな。初対面だし。」と最初は気が重かった一件がありました。でも、気を取り直し、祈って、電話でアポイントを取ることにしました。受付の人が取り次ぎ、その人物の秘書に取り次ぎ、気づいたら本人と直接電話で会話していました。その会話で、解決の方向性が一気に開けた経験をしまし、主をあがめました。

歩き出してみましょう。


2、主イエスの生き方

男が主イエスにいやされたのが安息日だったので、ユダヤ人が主イエスを批判しました。病人をいやすことが、仕事に当たるというのです。血の通った人間なら、良かったね、38年間も病気だったのに完全にいやされて良かったと喜ぶところですが、律法主義に凝り固まった人々は規則違反だと声高に主イエスを責めました。

そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」(10節)

 主イエスは、こうしたユダヤ人の批判に答えて、ご自分がどんな姿勢で生きているのかを説明されました。それが、11節から47節までの内容なのです。

 主イエスの主張を分かりやすく言えば、父なる神がなさっている事、願う事をしているだけだというのです。

イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」(17節)

 父なる神は世界創造の働きを6日間で終え、7日目には休まれました。けれでも、人をあわれむという働きは一日として休むことなく続けておらます。詩篇121篇にあるように、主は眠ることもまどろむこともないお方で、私たちへの愛は24時間降り注いでいて下さる方です。だから、主イエスは38年間病気だった人をあわれまれたのです。「ですからわたしも働いているのです」

そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」(19節)

主イエスは、父のしておられることをいつもじっと見ておられます。父のされる事と同じことをします。何でもします。これが、主イエスの行動の動機であり、勇気の源泉なのです。

わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。(30節)

 主イエスを遣わした方、つまり父なる神のみこころを求めて、それを行うことが主イエスの行動原則です。37節の言葉をきちんと読めば、主イエスが父なる神の姿を見ていたこと、父なる神の声を聞いていたことがはっきり分かります。
 主イエスは、父なる神だけを見つめている方なのです。人の賞賛など必要としません。今、一人で正義を行うとしている人、誰かのために匿名で良い事をしようとしている人、主イエスの態度を学びましょう。

 わたしは人からの栄誉は受けません。(41節)


 父なる神がなさっている事、願う事をする。それが、主イエスの行動原則です。私たちも、主イエスの行動原則を真似したいです。

 奥さんが52歳でアルツハイマーになり、奥さんを精一杯看護した男性がいました。その方は、どんな事があっても日曜には礼拝に行き、奥さんに牧師のメッセージを教え、共に賛美歌を歌ったといいます。主イエスを見上げることが、看護の源泉になっていたのです。

 主イエスの姿を真似ることが、クリスチャンの生き方の基本です。それは無理だというなら、38年病気だった人と同じになります。
あんな消極的で、否定的で、他人のせいにするような人間が変えられたのです。主イエスは、今日も「良くなりたいか」と聞いて下さいます。私たちも、主イエスだけを見つめて、歩き出しましょう。

 →あなたの番です
 □よくなりたいとはっきり口に出しましょう。
 □主イエスの力を信じて、自分の足で歩いてみましょう。
 □主イエスの心と行動を、自分の行動原理にして今週を過ごしましょう。