ヨハネ16:1~33  「その」という言葉



 「その」という言葉はどんな時に使いますか。通常、話し手にとって既知の事柄を第三者に伝える時に使います。ヨハネ16章には「その」という言葉が何度も出てきます。今日は、3つの「その」について考えましょう。

1、その方(8節)

 弟子たちは、最期の晩餐の席の主イエスの言動を見て、かなり動揺していました。(6節)主イエスは、助け主が来られるので将来の事は大丈夫と言われたのです。

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。(7節)

聖霊(パラクレートス=ギリシア語)は、私たちを助けて下さるばかりでなく、私たちの物の見方を革命的に変えて、真理とは何かを教えて下さる方です。

その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。(8節)

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。(13節)

 聖霊があなたに来て下さるまで、実は、真理はまったく見えていなかったのです。神は本当におられるのです。この世界は神が造られたのです。主イエスは、救い主なのです。あなたは、神とコミュニケーションができるのです。聖霊がその事を教えてくれるのです。

 あなたは、「その方」、聖霊を知っていますか。


2、その喜び(22節)

 「しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。」(19節)という言葉の意味が分からず、弟子たちは困惑しました。主イエスは、将来弟子たちが、「その喜び」を体験するようになると予告されました。

 山登りが好きなお父さんが、子供を連れて初めて山に登る場面を想像して下さい。険しい上り坂で子供たちは弱音をはくでしょう。けれども、山頂にたどり着き360度の絶景を見たなら、子供たちは言うでしょう、「すごいね。来て良かった」。すると、父親は言うはずです。「そうだろう」父親はその喜びを知っていたのです。

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。(20節)

「その喜び」と主イエスは語られました。その喜びが何か、主イエスは知っておられるのです。

日本で、小さな食堂のトイレに入ると、たいてい相田みつをの色紙が飾ってあります。「つまずいたっていいじゃないか、人間だもの」おおらかな人間肯定が人気の秘密です、私も彼の言葉も筆跡も好きです。
がっかりすることを先に書いて、後ろに「人間だもの」と書き入れれば、相田みつを風な色紙が書けます。「失恋したっていいじゃないか。~」「入院したって~」

主イエスが色紙を書くならどんな言葉をどんな書体で書くでしょうね。「あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」(20節)という言葉なら、人間だものとあきらめちゃいけない、わたしがあなたを造ったんだから、なんて感じになりますか?

あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。(22節)

 主イエスは、あなたに「その喜び」を与える方です。たとえ今が辛くても。


3、その日(23節)

 お父さんは、息子が中学生になると、まもなく声変わりがして、しばらく高い音が歌えない時期が来ると知っています。「とうさん喉が変だよ、病気かな」と息子に言われたら、その日が来たな、変声期だよと教えるでしょう。その日が来るのです。

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。(23節)

 弟子たちから、疑問が消え去る日が来るのです。聖霊に助けられ、真理が知らされ、苦しみを振り払う喜びが与えられ、祈りが答えられる経験をする日が来るのです。

 ペンテコステの日には、聖霊が激しく弟子たちに臨み、その後、ペテロやヨハネたちは主イエスがしたような奇跡を行い、主イエスが教えられたようなことを語り、主イエスが示したような愛を届けました。ペンテコステこそ、「その日」です。そして、「その日」は、今もあなたに起こります。

 ヘレンケラーの人生をまとめた『奇跡の人』の現代は、The miracle workerです。奇跡とはヘレンのことではなく、家庭教師のサリバン先生のことです。
ご存じのように、ヘレン・ケラーは、見えない、聞こえない、しゃべれない、という三重苦の暗黒に7歳の時までいました。サリバン先生は、その日が来ること、その喜びが来ることを知っていたのです。
サリバン先生は、9歳で母を失い、弟と一緒に施設に預けらました。寂しく、苦しい環境で、弟は死んでいきました。自分も目の病気を悪化させ失明し、心を閉ざします。そんな中で、聖書に触れ、14歳の時に手術をし、目が見えるようになり、誰かの助けになりたいと志を持ちマス。サリバン先生21歳の時にヘレンに会うのです。
指文字で「水」を教え、ヘレンはそれが何かを悟った日が来ました。ヘレンが後に語ったところによると、言葉というものがあるのを知った晩、ベッドの中で、嬉しくて、嬉しくて、早く明日にならないかと胸をわくわくさせたといいます。その喜びは誰にも理解できないほど大きなものだったようです。サリバン先生は、その日が来ること、その喜びが来ることを体験的に知っていたのです。
 次のヘレン・ケラーの言葉は私たちを励ましてくれます。「私は何もかもできるわけではない。でも、何かはできる。」

 最後に、主イエスは勇敢であれと言われました。それは、その方、その喜び、その日を知っていたから言えた言葉なのです。

 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(33節)

 →あなたの番です
  □その方、その喜び、その日。あなたに、どれが必要ですか。
  □神はあなたを勇敢な人として造られました。そう、生きていきましょう。