詩篇24篇 世界は主のもの


 木村清松牧師は、1908年、ナイアガラの滝をアメリカ人に案内され、こんな大きな滝は日本にはないだろうと言われました。ところが、これは私の父のもの、と発言、ナイアガラの滝の所有者を父に持つ日本人牧師として有名になりました。
 詩編24篇を読むと、壮大な神の姿と、それを迎える城壁の門が印象に残ります。

1、すべては主のもの

 詩篇24篇は、ダビデが神の箱をオベデ・エドムの家からエルサレムに運び上った時の歌と理解されています。
 その時、レビ人がラッパやシンバルや竪琴を演奏しながら歌い、大勢の人々が歓声を上げて神の箱を迎えました。(第2サムエル6:12、第1歴代15:25~28)

 ダビデが喜び踊って迎え入れた神とはどんな神ですか。ダビデが信じていた神とはどんな方でしょう。

地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。(詩篇24:1~2)

 神とは、世界を造られた方です。世界に存在するものすべて、世界に住んでいる人々も、神のものです。2節には、神が世界の骨組みとなる部分を造られたと述べています。
私たちは、神のベビーベッドで育てられ、神が植物に命じて造らせた酸素を吸い、神の別荘に住ませてもらい、神の用意された食材で料理を頂き、神の愛で守られているのです。

すべては神のもの。それに気づくと、生き方が変わります。私の持ち物も、私の能力も、私の記憶も、私の未来も、神のものです。それなら、私のお金や所有物を誰かに渡すことが楽になります。

 「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」



2、神を求める

 神の神殿に、誰が行けるのでしょう。

だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。セラ(3~6節)

 ひとことで言えば、神を求める人が神殿にふさわしいのです。「手がきよい」とは、実際の世界でも偽りや汚れのない生活をするという意味。「心がきよらか」とは、その人の内面に誠実さや純粋さがあるという意味でしょう。信仰とビジネスは別でっせ、なんて言うことは通用しません。真に神を信じているなら、手も心も等しく、神を見上げて生きるはずです。

そうは言っても、心が完全に正しく、生活が100%きよい人がいるでしょうか。むしろ、自分の罪やけがれを深く意識している人が、「神を求める者の一族」、「あなたの御顔を慕い求める人々」、なのだと私は理解しています。

「ヤコブである」という言葉に、慰めと励ましが隠されています。生まれつき性格が悪く、策略策謀で兄を押しのけたヤコブが、艱難辛苦を経験して砕かれ、神を求める者に変化しました。聖書で、ヤコブという名が使われるたびに、神のあわれみを意識できます。

あなたも、ヤコブとして、神を求める人になりましょう。神の御顔を慕い求める者になりましょう。

毎朝、祈りましょう。
私はあなたが大好きですと言ってみましょう。もっと、あなたという方を教えて下さい。もっと、あなたを知りたいです。もっと、深く知りたいです。もっと、親しくなりたいです。そう祈りましょう。



3、門を開ける

 中近東の大きな町には城壁があり、外敵から町を守っていました。高貴な人が町に入る時には従者が門を開けるよう要求します。門番はゲストの名を尋ねます。すると、どこのだれだれと従者が答え、門が開いたといいます。
 こうした文化背景から、ダビデは神がエルサレムに入る場面を想定しています。

門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。
門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。(7~10節)

 ダビデは、門を擬人化し、自らの決断で王である神を迎えるように促しています。門に呼びかけるなら、「開けよ」となりそうですが、かしらを上げよとは不思議な表現です。神の前に背筋をぴんと伸ばし、最大限の敬意を示せという意味なのでしょうか。
 この「門」は、第一義的にはエルサレムの門です。ですが、もっと広い意味を持つのでしょう。まずは、ダビデは自分自身の心の門に叫んでいるのでしょう。さらに、この詩編を読むすべての者、私やあなたにも語りかけ、あなたの心の門を広く高く開け、栄光の王の前に膝をかがめ、あなたの人生の王座に神を迎えよ、と言っているのでしょう。

 ソロモン王は絢爛豪華な神殿を建てました。ダビデは、神殿を建設しませんでした。でも、心の中心に神を迎え入れたのはどちらでしょう。神と共に戦い、昼も夜も神に祈り、罪を悔い、神を愛し、神を喜んだのは、間違いなくダビデです。

 神は、あなたの人生のどこにおられますか。
 あなたの食卓の主賓席に神は座っておられますか。それとも、物置や家の外に追いやられていますか。会社のオフィスにも神を招いていますか。あなたの財布も財産も、神と共に管理していますか。神を、あなたの心のすべての場所で中心にお迎えしましょう。

 ジム・ホワイトはケニアで5年間、宣教師として活躍しましたが、ウイリアム・ニガンダという伝道者のことを尊敬していました。わずかな言葉を語るだけで、多くの人々が涙して改める神の人だと評判で、ある日、車を運転していた時に、ニガンダ師と出会いました。車の中に招き入れしばらくジムは語り合いました。後ろの席に座っていた5歳のジムの娘にニガンダ師は声をかけ、「お嬢ちゃんは何という名前なの」「バレリーっていうの」「バレリーは、イエスさまを愛しているかい」「うん、まあ」ニガンダ師と分かれた車の中では、温かい感動に包まれ、5分間、誰も、何も話しだしませんでしたが、バレリーは「お母さん、大きくなった、私、神の人になりたい」と言いました。

 神を愛す人、神を礼拝する人、神に変えられる人になりたいなら、努力を始める前に、心の真ん中に神をお迎えしましょう。


 →あなたの番です
 □世界は主のもの、あなたも主のもの。
 □神の御顔を慕い求める者になりましょう。
 □門を高く上げ、神を心の中心に迎えましょう。
 
 「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。」