ピリピ2:1~30 いのちのことばを握って



 牢獄にいたパウロは喜んでいました。なぜでしょう。
 ピリピ2章から、その秘訣を見つけましょう。

1、キリストのへりくだり

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。(ピリピ2:3)

不思議なものですね。卒業文集ができると、まず自分の書いた文章を読みます。集合写真が出来上がったら、自分の顔を探します。自分が横を向いたり、目をつぶった写真は悪い写真と評価します。私たち人間は、ほんとに自分中心ですね。

自己中心と虚栄。それが、諸悪の根源です。自分の欲求だけが満たされればいい。自分が、本来の自分以上に立派に見えればいい。
この自己中心と虚栄が、夫婦関係を破壊し、家庭を冷たいものにします。自己中心と虚栄が、会社や学校や世界を殺伐としたものにします。パウロは、ピリピの人々に忠告しました。仲たがいせず、一致し、他者を思いやれと。

 どうしたら、自己中心と虚栄を排除できるでしょう。勉強や努力や修練では直すことはできません。主イエスを見ましょう。主イエスの生き方を思い浮かべましょう。

 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:4~8)

 獲得する、価値ある者と認められ、華々しく生きることを私たちは求めます。主イエスはその反対の道を選びました。捨てる、無になる、卑しくなる、死ぬ。

 誰かを愛そうとするなら、必ず何かを捨てる必要があります。自分の時間、自分のお金、自分の自由、自分の願い。

 パウロが牢獄でも喜べた理由は、主イエスの生き方に目を向けていたからです。喜びの源泉が自分の外にあるので、環境に関わりなく喜べるのです。

 誰かのために、捨てることができるなら、私たちは喜べるのです。


2、いのちのことばを握って

 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。(ピリピ2:12~16)

 「救いの達成に努めなさい」(12節)とは何だろう。
 罪を悔い改め、主イエスを救い主として信じるなら誰でも救われます。信じるだけで救われるので、行いは必要ではありません。
 救いの達成とパウロが言うのは、救われた者にふさわしい生活を心がけなさいという意味でしょう。なぜかというと、「行いなさい」(14節)「彼らの間で世の光として輝くためです」(16節)と、アクションに言及しているからです。

 救いという目に見えない事実は、目に見える行動によって明らかになります。

 イエスさまを信じて、罪が赦された人は、聖霊の働きによって行動に変化が出てきます。心と行動が徐々にきよめられ、傷のない神の子供として生きるようになります。
 そのためには、聖書の言葉、いのちのことばをしっかり握って歩くことが鍵になります。この世界の実態は、邪悪な世代であり、暗い世界なので、私たちは光として輝くことが神に期待されているのです。

「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」(16節)



3、二人の輝く人

 パウロは、テモテをピリピに遣わす予定でした。エパフロデトはピリピからパウロに献金を届けてくれました。この二人がパウロの喜びになりました。

 しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。(ピリピ2:19~21)

 テモテはパウロの弟子で。パウロが教えて、育てました。けれども、パウロは自分より年若いテモテを尊敬し、テモテの生き方に感銘を受けました。自分の願いを二の次にして、キリストを求めるテモテを見て、パウロは喜んでいます。
あなたも後輩から多くを学べます。そうした、柔らかな心を持っているなら、喜びはいつもあなたのそばにあります。

第一にJ、第二にO、第三にYという順序で生きると、喜び(JOY)がやってくると誰かが言っていました。JとはJesusでイエスさま。OとはOthers で他の人々、YとはYourselfで、あなた自身。
テモテは、イエスさまを第一に考える人でした。

 しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。(ピリピ2:25~27)

 エパフロデトは、パウロに献金を届けるため、文字通りに命がけで旅をしてローマまでやって来ました。慣れない旅の疲れのせいでしょうか、重い病気にかかり、死の直前までに悪化しました。パウロに仕えるどころか、パウロに看病される立場になったので、エパフロデトは申し訳ない気持ちでいっぱいになったでしょう。
 口の悪い人なら、エパフロデトは「仕えねえ奴だ」と言うでしょうが、パウロは、結果でなく動機を評価しました。尊敬を払うべき立派な人物であり、キリストの仕事のために命をかけたとエパフロデトを絶賛しました。

 ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。(29~30節)

 アグネス・ボヤジュはマケドニアに生まれた女性で、若い時から聖マリア高等学校の教師として働きました。彼女が36歳の時、ダージリンという避暑地に向かう汽車の中で、「わたしは乾く」という主イエスのことばを聞きます。
 アグネスの働く学校はインドにあり、学校の外には貧しく不幸な人が大勢いました。18年間そういう人々を見てきましたが、主イエスが最も貧しい人々に姿を代えているのだとアグネスは理解し、その人々に仕える決心をしました。
 アグネスとは、マザー・テレサの本名です。マザー・テレサは、主イエスに仕える道を歩み始めたのです。

 「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」(ピリピ2:21)


 →あなたの番です
  □自己中心や虚栄を捨て、キリストのように謙虚に生きましょう。
  □みことばを握り、世の光として輝くアクションをしましょう。
  □キリストのため生きる人になりましょう。