第1サムエル18:1~30 王の嫉妬


 サウルは嫉妬した。
 一国の王が若者のダビデに嫉妬した。
 今日は、嫉妬について考えます。

1、ヨナタンの友情

 ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。(第1サムエル18:1)

ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。(4節)

 ここは聖書の中で最も美しい友情の場面だと私は思います。勇敢な兵士として知られたサウルの息子ヨナタン(英語ではJonathan=ジョナサン)は、ダビデを嫉妬しません。「ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。」とあります。ゴリアテを倒したダビデの鮮烈なデビューは、王子としてのヨナタンの立場を危うくしますが、ヨナタンはダビデをねたみません。純真な心でダビデを尊敬し、友情の印として上着や剣を与えました。
尊敬心と友情。それが嫉妬から私たちを守るキーワードです。

 錦織選手がテニス全米オープンの決勝に出場。99.9%の日本人はその活躍を喜んだはずです。でも0.1%の人は嫉妬したかもしれません。それは誰でしょう。同年輩や少し年上の男子プロテニスプレーヤーの心中は複雑だったと推測できます。

 私も嫉妬したことがあります。自分より若い人、有能な人がいるだけでジェラシーが生まれます。息子と結婚した若い嫁。職場に入って来た有能な新入社員。教会に加わった熱心で前向きな後輩クリスチャン。
 そういう人の良さを率直に評価しましょう。尊敬しましょう。自分から友達になりましょう。
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12:15)


2、嫉妬の恐ろしさ

 ダビデがあのペリシテ人を打って帰って来たとき、みなが戻ったが、女たちはイスラエルのすべての町々から出て来て、タンバリン、喜びの歌、三弦の琴をもって、歌い、喜び踊りながら、サウル王を迎えた。女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」(6~8節)

 ダビデは、若く、ハンサムで、ゴリアテを倒すほどの武勇に優れ、音楽も上手、国民から絶大な人気をほこり、女たちの流行歌にまでなりました。サウル王は嫉妬で燃え上がりました。

 1921年テニスのデビスカップで、日本の清水善造選手はアメリカのW・T・ティンデルと決勝戦で戦い、7-5、6-4、5-4となりマッチポイントでラインぎりぎりのサーブを決め、ティンデルは敗北を認め握手を求めてきました。ところが、審判は無効を宣言。清水選手はこの判定で緊張感が切れ、結果的には負けてしまいました。
 この時の審判、C・N・フォーテスク氏は、「あのサーブは入っていた」と死の間際に告白しました。アメリカ選手がアジア選手に負けるのを見るのは忍びなかったというのです。嫉妬が人の人生を狂わせました。

嫉妬の恐ろしさとは何だろう。それは、自分が嫉妬していることに気づかないことです。嫉妬していることを認めたくないのです。誰かを正当に評価しているつもりでも、客観的に見るなら、人の小さな欠点を責め、優れた点を否定し、いじめているだけです。
嫉妬は、恐れと猜疑心を引き起こし、やがては、殺意に至ります。

 その翌日、神からの悪い霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。サウルはその槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思ったからである。しかしダビデは二度も身をかわした。(10~11節)

槍による殺害に失敗したサウルは、ペリシテ人の手によってダビデを殺そうと画策し、危険な戦場にダビデを送り込みました。(17、21、25節)間接殺人です。
「サウルは、自分の手を下さないで、ペリシテ人の手を彼に下そう、と思ったのである。」(17節)

 サウル王は、次に、娘のミカルを嫁にやるというニンジン作戦でダビデ殺害を狙いました。100人のペリシテ人を殺してその印を持ってくれば花嫁料とみなそう(25節)と伝えました。ダビデは、その2倍の200人を倒し、みごとに王の娘ミカルと結婚しました。(26~27節)サウル王は、またも失敗しました。

 人と比較するから不幸になるのです。比較を止めると心穏やかに過ごせます。

身近な若い人に異常に腹が立っていませんか。それは、嫉妬です。嫉妬はあなた自身を苦しめます。


3、愛されたダビデ

サウルはダビデを恐れた。主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。それでサウルはダビデを自分のもとから離し、彼を千人隊の長にした。ダビデは民の先に立って行動していた。ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。主が彼とともにおられた。ダビデが大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れた。イスラエルとユダの人々はみな、ダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動していたからである。(12~16節)

ダビデの特徴は、愛される人です。この18章には6回「愛された」という言葉が使われていますが(1、3、16、20、22、28節)、愛されたのはすべてダビデです。「イスラエルとユダの人々はみな、ダビデを愛した。」(16節)ダビデはヨナタンに愛されました。ミカルに愛され、イスラエルの人々に愛され、サウルの家来にも愛されたのです。
                                     
それだけでなく、主が共にいてくださることが分かります。ダビデが主と共にいたとは書いてありません。主のほうが、ダビデと共にいることを喜ばれたのです。「主はダビデとともにおられ」(12節)「主が彼とともにおられた。」(14節)「主がダビデとともにおられ」(28節)これは、主がダビデを愛しておられたと理解してよいでしょう。

選ばれた人、有能な人、愛された人、昇進した人は必ず嫉妬されます。必ず通る試練です。ダビデは、サウルの嫉妬を真正面から取り合わず、与えられた使命を誠実に謙虚に淡々とこなしました。嫉妬された時に足を取られない生き方は誠実さと謙遜です。

それでサウルの家来たちは、このことばをダビデの耳に入れた。するとダビデは言った。「王の婿になるのがたやすいことだと思っているのか。私は貧しく、身分の低い者だ。」(23節)

 ダビデは「私は何者なのでしょう」(18節)と語り、傲慢さのかけらも示しません。

 かずとし君は幼い時に小児麻痺になり、足は動かず立てません。右手は全く動かず、左手が少し動く程度でした。3歳の時に母に死に別れ、青年期には二番目の母と父親が死んでしまいました。物心ついた時から畳をいざることしかできず、1930年代という時代背景もあり、小学校は彼を受け入れてくれませんでした。外で遊ぶ子供をねたんだことでしょう。
 青年時代に初めて聖書を読み、神が私を造られたのだと気づき、生まれついての盲人について主イエスが「神のわざがこの人にあらわれるためです」(ヨハネ9:3)と言われる場面を知り、人生が大きく変わり、主イエスを信じました。それ以来、リヤカーに乗せてもらって往来で主イエスの福音を力強く語る人、多くの人を励ます人に変わりました。
 もう人との比較はしません。嫉妬の人生に決別しました。主から与えられたものを感謝し、主と人のために生きることが生きがいとなりました。この人が、札幌で活躍された三橋萬利牧師です。

 嫉妬しない道は、1)人と比べない、2)与えられているものを感謝する、3)主への恩返しを具体的に行うことです。ダビデは、まさに、そういう人でした。

 今日の登場人物を整理しましょう。あなたは誰に似ていますか。
  尊敬と友情のヨナタン。
  嫉妬と殺意のサウル王。
  謙虚で人に愛されるダビデ。

「ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。主が彼とともにおられた。」(14節)
「イスラエルとユダの人々はみな、ダビデを愛した。」(16節)

 →あなたの番です
  □誰に、どのように、尊敬と友情を表しますか。
  □醜い嫉妬心を捨て去ろう。
  □主に愛される謙虚な人になろう。