第1コリント1:1~31 十字架の言葉


 コリント人への手紙第1を1章ごとに見ていきましょう。
 今回のテーマは仲間割れです。

1、神の教会と聖徒たち

 コリントは、ギリシア半島南にある通商と政治の中心をなす巨大都市でした。東の港ケンクレヤと西の港レカイオンの距離がわずか8kmという地峡を生かして、船の積荷がコリントで積み替えられ活況を呈していました。「コリント風」という言葉が当時、みだらなことを意味したのは、町の南にあったアフロディト神殿に神殿娼婦が1000人いたせいでしょう。

 パウロは紀元50年、第2回伝道旅行でコリントを訪れ1年半滞在して教会を立ち上げ、母教会のアンテオケに戻りました。数年たった紀元55年ごろ、パウロは滞在中のエペソでコリント人への手紙第1を書きました。
 
 コリント教会は極めて問題の多い教会でした。この問題の教会のおかげで、今日、私たちが珠玉の言葉を手にしていることは主の節理としか言いようがありません。
 コリント手紙への手紙第1は、コリント人の質問にパウロが回答する形をとっています。テーマは、仲間割れ、性的不道徳、結婚の乱れ、偶像礼拝との関わり、御霊の賜物の取り扱い方、復活に対する疑問などです。

コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。(第1コリント1:2)

コリント教会にどんな問題があろうと、また、自分が開拓した教会であろうと、パウロにとっては「神の教会」でした。どんなに少数の集まりでも、礼拝堂がどんな建物であっても、教会は神の教会なのです。神の教会に所属しているという意識はとても大切です。
 また、コリント教会の人々がどんなに問題が多く、あきれた人々であっても、キリストによって「聖徒」とされた人々であることをパウロは忘れていませんでした。彼らもまた、「聖なるものとされた」人々なのです。



2、仲間割れ

さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく。」「私はアポロに。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っているということです。(10~12節)

「仲間割れ」「争い」という言葉から分かるように、パウロが最初に取り上げた問題は教会内で起きた仲間割れでした。
パウロがコリント教会を去った後、アポロという伝道者がコリントにやって来て、かなりの人気を得たようです。アポロについては使徒18:24~28節に言及されていますが、「雄弁なアポロ」(使徒18:24)とあるように、パウロと違うタイプでインテリジェンスを感じさせる伝道者だったのでしょう。もしかしたら、パウロより若くて、イケメンだったのでしょうか。コリント教会にはパウロ派とアポロ派ができて対立しました。どちが正しいかという議論や感情的なぶつかり合いが起きて、教会内がぎくしゃくしたことでしょう。

仲間割れは、人のいる所なら必ず起こることです。学校でも、職場でも、国家間でも分裂や対立があります。親戚や兄弟、夫婦の中でも仲間割れが起きます。あなたの周囲に、仲間割れがありませんか。
現代の教会でも仲間割れが起きます。たとえば、著名な伝道者に心酔して自分の所属する教会の牧師を批判し、その伝道者のCDやDVDや本を周囲の人に渡して仲間を作り、教会を分裂させたという話は山ほどあります。有名牧師から洗礼を受けたことを、プライドにしているクリスチャンもいます。パウロが聞いたらきっと嘆くでしょう。パウロはそうした問題を見越して、自分では少数の者にしかバプテスマを授けていませんでした。(1:14~16)

あなたが、仲間割れの張本人になっていませんか。自分だけが正しく、他人は間違っていると固く思い込んでいませんか。何度も何度も、特定の一人の悪口を言うときは、自分の姿勢や態度や動機を点検する必要があります。

「主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。」(10節)



3、十字架のことば

 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(18~21節)

 パウロは哲学の聖地、ギリシャで、難しい哲学を駆使したり、知識をひけらかすような手法を取りませんでした。当時の知識人から見れば、愚かに見えた福音でした。でも、十字架の言葉こそ力があるのです。「宣教のことばの愚かさ」の中に神の知恵が満ちているのです。

 仲間割れのテーマは1~4章で取り上げています。1章において、仲間割れ問題の解決策として提示されたのが、「キリストの十字架」でした。
 「キリストの十字架」(17節)
 「十字架のことば」(18節)
 「十字架につけられたキリスト」(23節)

 仲間割れの根本原因はプライドです。空虚でつまらないプライドが分派を起こします。自分は有名な伝道者から教えを受け〃悟り〃を得たハイレベルのクリスチャンだ、スピリチュアリティーの高い信仰者になったので普通の人とは違うと思い込む事が原因だったのです。
 十字架につけられた主イエスの姿を見るなら、私達のくだらないプライドは砕かれます。「神の御前でだれをも誇らせないため」(1:29)なのです。

ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。(22~24節)

 「愚かな者」、「弱い者」、「取るに足らない者」(27~28節)である私達が選ばれ、キリストによって義とされ、聖められた(30節)ことに気づけば、プライド意識は吹き飛びます。

 エミーちゃんという女の子がクリスマスにおばあちゃんからプレゼントをもらいました。開けてみると可愛い人形でした。エミーちゃんは一日中、その人形で遊びましたが、夜になると古い人形を出してきました。髪の毛も随分ぬけて、腕も片方しかなく、片目は開きません。エミーちゃんは言いました。「おばあちゃん、プレゼントの人形をありがとう。でも、私はこの古い人形が大事なの。だって、この子を好きなのは、私だけだから。」

 エミーちゃんの古い人形は私の姿だと思うのです。いかがですか。
 取るに足りない私のために、イエスさまは十字架で死んで下さった。その主イエスの姿が私の心を打ちます。謙虚な心になります。プライドなど吹き飛びます。

 自分を振り返ってみましょう。仲間割れの原因を自分が作っていないか、心に隠れたプライドがないか。十字架だけを誇りと、十字架につけられた主イエスを伝えませんか。十字架の言葉こそ最もパワフルな言葉であり、仲間割れの本当の解決策なのです。

 「誇る者は主を誇れ」(31節)


 →あなたの番です
  □あなたが、仲間割れの原因を作っていませんか
  □つまらないプライドは捨てましょう
  □十字架の主イエスだけを誇りとしましょう