第1コリント2:1~16 神の知恵


 コリント教会で起きた仲間割れは、知的プライドに原因があるとパウロは見抜きました。人間的な知恵に偏重せずに、御霊に頼れ、というのが第1コリント2章の内容です。

 主イエスは十字架の前に、「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。」(ヨハネ16:7)と語り、御霊が来ることの幸いを予告されたことを思い起こしてください。

  今日は、御霊に焦点を当てましょう。

1、御霊によって福音を語る

 パウロは、コリントにおいて、心に決めたことがありました。御霊によって語ると決意していたのです。十字架のイエスだけを語ろうと心に決めたのです。

さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。(第1コリント2:1~2)

パウロは、コリントに来る前にアテネで伝道しました。哲学の本場アテネでエピクロス派やストア派の哲学者に負けじと議論しました。(使徒17:16~34)今までとは違う語り口で、つまり哲学の言葉や論理を駆使した福音を語ったのでしょう。けれども、反応はおもわしくなく、開拓伝道は行き詰まり、教会を立ち上げることは出来ませんでした。アテネを去り、西に50マイルほどのコリントに到着した時には、「弱く、恐れおののいていました。」(3節)と述懐するほど意気消沈していたのです。

そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。(4~5節)

 この説明は、キャンパスクルセードによる伝道の定義を思い起こさせてくれます。「伝道とは、御霊により、分かりやすくイエスを伝え、結果は神にまかせること。」

 9節にあるように福音とは人間が想像も及ばない事でした。聞いたことも、見たことも、人間の心に思い浮かんだこともない十字架の福音でした。神が人となり私たちの罪を背負って身代わりに死んで下さるという事は、まさに神の知恵なのです。それは、世の始まる前に神が定めた福音でした。(7節)だから、人間の知恵や説得術では福音本来の力を発揮することができないのです。福音は御霊によって語るものなのです。

十二弟子の一人ペテロは、学歴のない漁師でした。「ことばのなまりではっきりわかる」(マタイ26:73)と言われたほどの田舎者でした。
そのペテロが主イエスの昇天後、熱心に伝道し、当局に逮捕され、最高権力者たちの前で尋問されたことがありました。「そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。」(使徒4:8)とありますが、ペテロの受け答えを見て国会議員や律法学者たちは舌を巻きました。「ペテロとヨハネの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いた」(使徒4:13)のです。学歴がなくても、方言丸出しであっても、神に祈り、聖霊に頼って語る時、神のことば本来の輝きが出てくるのです。

ある人が弟を教会の日曜礼拝に連れて行きました。その時に語られた牧師先生は田舎の言葉丸出しで主イエスの十字架と復活だけをとつとつと語ったそうです。弟を連れて行った当人は頭を抱えてしまいました。だめだ。理系の大学を出たインテリで共産主義の活動家の弟にこんな話は通用しない。礼拝を終わると、その弟は「イエスさまを救い主として信じる」と言いました。理由を聞くと、唯物思想も共産主義も私を救えなかったけれど、私のために十字架で死んでよみがえってくださった神の子イエスなら私を救えると思ったそうです。

あなたも、聖霊に頼って、十字架のイエスを宣教しませんか。



2、御霊によって理解すること

 主イエスを伝える時に御霊によって語るなら、神の言葉を聞く時も御霊の助けが必要です。

主イエスの十字架を知的に理解しようとしても、ある部分までで終わってしまいます。御霊の助けをもらうと、私たちの心の深い部分で理解できるようになります。御霊は、神の心の深みにまで到達しているので、神の心を私達に直接分からせてくれるのです。

神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。(10~12節)

 この世に生を受けて生まれた人間は、最初、御霊に関することは、まったく理解できません。

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(14節)

 I surrender allという有名な聖歌があります。折り返しの部分はこうです。
I surrender all, I surrender all,
All to thee, my blessed Savior,I surrender all.
作詞者のJudson W. Van DeVenter (1855–1939)は、自分の賜物をセキュラーの世界で用いて有名になるか、すべてを明け渡して伝道者として主に仕えるか、思い悩んだ末に主に人生を明け渡すことにして、その時の決意を歌にしました。降伏します。身を任せます。明け渡します。そういう心を持って神の前に出る時、御霊は私たちの中に自由に働いて下さいます。

 私たちは徹頭徹尾、罪人です。性格や人格や行動パターに大きな欠陥を抱えています。知的理解が有限で偏りがあります。そういう私たちが、自分の不完全さに気づいて、御霊に耳を傾けることは当然のことです。罪を悔い改める謙虚な低い心になって聖書の言葉に向かうと、御霊が大切な事を教えてくれます。

耳を傾けましょう、御霊に。ゆだねましょう、御霊に。

私は高校時代にフェンシングをしていましたが、剣を握る時に競技用の手袋を使っていました。冬は、部室に放置した手袋が硬直して使いにくくなります。
私たちは神が使用する手袋のようなものです。私達が我を張ったら、神は神の計画を実行できません。柔らかな手袋なら、持ち主が自由に動けます。御霊の声に耳を傾け、御霊の励ましを受けて動く。それは最も神の栄光を表す方法です。

「私たちには、キリストの心があるのです。」(16節)

→あなたの番です
 □御霊によって、十字架の主イエスを伝えましょう
 □謙虚な心で御霊の声を聞き、自分をゆだねましょう