創世記1:1 初めに神が

 今日は野外礼拝です。公園で青空を見上げながら木陰で主を賛美し礼拝しましょう。創世記冒頭の1節には真理がシンプルに書かれています。

1、神とはどんな方か

初めに、神が天と地を創造した。(創世記1:1)

 ①はじめという起点があった。
 ②神は意志を持った存在。
 ③神が宇宙と地球のすべてを造られた。

 ①神こそが、あらゆるものの起点です。空間だけでなく時間さえも神によって造られました。神だけが、あらゆるものの起点を設定できるお方です。

 ②世界は偶然にできたのではありません。神が世界を造ると意思されたので、世界ができました。神は単なるエネルギーや法則ではないのです。神は人格を持つお方なのです。

 ③天と地は地球と空を指します。マクロの目で宇宙を見ると、その広大さと力強さに圧倒されます。ミクロの視点に立てば、原子や素粒子やDNAの世界に驚くべき秩序があることに気づきます。モナリザの絵を見て作者のダビンチを無視して、「偶然とは素晴らしいですね」と言う人は誰もいません。複雑精緻な世界を見て、偶然とは素晴らしいですねとは言えないはずです。

 レース中のマラソン選手に「どこを、いつ出発しましたか」と尋ねたとしましょう。「出発地点は知りません、スタートしたつもりもありません」と答えたとしたら私たちは耳を疑います。

 私たち人間はそのマラソン選手と同じです。いつ生まれたかを知らず、生まれるつもりもなく、走るつもりもなく、走っています。その上、目的地も知らないままです。

 ですから、私たち人間に必要なものは、人生の起点です。神を人生の起点にしましょう。そうすれば、ボタンの掛け違いを防げます。私たちは神に造られました。それを人生のスタート地点にしましょう。「はじめに神が」というフレーズを私たちの人生の大前提としましょう。その時、今、走っている意味が見えてきます。目指すものが絞れてきます。


2、神にどう応答したらよいのか

 多くの人は、自分の人生は自分のものだと考えています。まるで、自分が自分を造り、自分のおかげで生きていると勘違いしています。聖書は言います。神が世界を造り、あなを造ったのだと。あなたはどんな応答をしますか。

 アメリカ人のマカルティ宣教師は福音を伝えるために中国に渡り、”Easy introduction to Christian doctrine” という小冊子を書き、 漢文に翻訳して印刷し、伝道のために配布しました。マカルティ宣教師は1861~2年に日本を訪れブラウン、フルベッキなどの宣教師と会いましたが、その小冊子は『真理易知』という題で日本でも配布されました。(布施田哲也氏の研究による)

 1863年、20歳の日本人武士はその本を友人から借り、夜、人目を忍んでその本を読みました。はじめに神が天と地を創造したという文章を読んで心底驚きました。

 「私は聖書を置いて、あたりに目をやってみた。そして、このように自問した。私を造ったのは誰か。両親か。そうではない。それは私の神だ。神が私の両親を造り、そして両親を通して私を造られたのだ。そうであるなら、私は感謝し、神に対して正しい人とならねばならぬ。」

 神が私たちを造られたのです。ならば、私たちも、神に感謝し、神から与えられた使命を果たしましょう。あなたは、何のために神によって造られたのでしょう。

 翌年1864年、その青年武士は函館からアメリカ船に乗り込み、国禁を犯して日本を脱出、ボストンに着くと、「神よ、もし目があるなら、どうか私を見出してください」と祈りました。

 彼の祈りは聞かれ船主が彼をフルサポートしてくれることになり、洗礼を受け、アーモスト大学、アンドバー神学校を卒業して帰国、32歳で同志社大学を創立しました。そうです、彼とは新島襄です。

 あなたは、現代の新島襄かもしれません。神に造られたことを知り、神に感謝し、神から与えられた使命に生きてみませんか。新島襄の起点は創世記1章1節にありました。あなたの人生の起点を神に置き、人生を再スタートしましょう。

 →あなたの番です
  □神は、世界と私を造った方です
  □私を造った神に感謝し、神から与えられた使命を生きる