創世記3:1~24 御顔を避けて



 なぜ私は嘘をつくのだろう。人を傷つけてしまうのだろう。私たちは皆ボタンを付け間違えたことに気づいています。どこでボタンを付け間違えたか創世記3章は教えてくれます。

1、善悪の知識の木

 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。(創世記2:9)
神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(2:16~17)

 「ビーチフロントの豪華別荘を1ヶ月間無料で使っていいよ」と友人に言われたら、どうします。もちろん私は行きます。そして普段以上に大切に使います。
結婚の喜びや祝福を得るには、どうしたらいいですか。結婚式で愛を誓うだけでなく、生涯その約束を守ることです。約束を破ったら家庭は地獄になります。
与えられる特権や祝福が大きければ大きいほど、守るべきルールが自ずと発生します。善悪の知識の木は、それによく似たものです。

神は、人だけを神のかたちに創造し、最大限の自由意志を与え、豊かなエデンの園に置き、すべての被造物を守り導く権限をお与えになりました。人はきわめて大きな祝福を神から頂きました。ですから当然、守るべきルールが発生します。そのルールとは、神に感謝し、神に従い、神と共に歩むことです。命をもらい、食べ物をもらい、すばらしい特権をもらっているのですから、これを守らないなら恩知らずになります。「善悪の知識の木」を食べないということは、神からの祝福を守るためのルールの象徴なのです。

神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。(3:22~24)

3章全体から分かるように、人はルールを破りました。神は、その一日中アダムの謝罪を待たれたのでしょう。夕方、そよ風が吹く頃まで待たれました。足音など立てない方が、あえて人に気づかれるように存在を表しました。自分から謝るきっかけを作られたのでしょう。
でも、人は神に謝ることもせず、謙虚にもなりませんでした。それで、罪の報いとして、夫も妻もとても厳しい処罰(3:16~19)を受けました。妻の場合は、夫を恋い慕っても夫に支配される、いびつな夫婦関係が始り、出産の苦しみが増しました。夫は、苦しんで食を得なければならず、人間は永遠の命が奪われました。世界全体も、虚無に服しました。(ローマ8:20~21)

3:15には、救い主イエスがサタンに勝利することが予告されています。また、3:21では、神が裸の二人に衣を着せて下さいましたが、動物の命を犠牲にして人を覆われたので、主イエスの身代わりの十字架の予告となっています。

3:23~24によると、アダムとエバは「いのちの木」から隔離されて永遠の命を失い、エデンの園から追放されました。「エデン」は本来「喜び」を意味しました。
黙示録22:2では救いの完成の時が語られ、巨大な都、新しいエルサレムに「いのちの木」があることが分かります。永遠の命が再びもたらされる印です。



2、神のようになる

さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。(創世記3:1~6)

 へびは、「どんな木からも」食べてはいけないのか、と神が意地悪という印象を作りました。「ほんとうに」と念を押して神を疑わせます。最後には、神の言葉を完全否定します。そして、「神のように」なれると強調しました。女は誘惑に負け木の実を食べ、夫にも食べさせました。

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(8~12節)

本来、人間は絶対に神にはなれません。造り主と被造物とでは天地の違いがあります。では、<神のようになる>というのはどんな意味でしょう。最高権力者になったと錯覚すること、能力もないのに全能感だけ持つこと、決して自分は失敗を犯さないと思い込むこと、です。

ですから、神から「食べたのか」と問われても、アダムは「ごめんなさい」と言いませんでした。悪いのは妻だと責任転嫁しました。本気でそう思ったのです。
神が置かれた女が悪い、つまりは神が悪いと責めました。これが、神に背を向けた人間の行き着く姿です。神のようになっていたので、自分が悪いとは思わないのです。
かばってくれないアダムを見て妻は怒ったでしょう。妻も過ちを認めず、へびが惑わしたと述べて自分が犠牲者のように振る舞い、神の創造に落ち度があったと言っているのです。

まったく逆の場面も想定できました。アダムが、「私が食べました。ごめんなさい。妻は悪くありません。私が責任者ですので、私が処罰を受けます。」それを聞けば、エバはこう言うでしょう。「いいえ、私が悪いのです。最初に食べたのは私で、夫をそそのかしたのです。私だけを処罰して下さい。」「いや、僕だけが悪い。」「いいえ私です」こんな夫婦になりたいです。

あなたの番です。
あなたが、「神のよう」になっていませんか。家庭や職場や友人の中で、悪いのはいつも自分以外の誰かだと考えていませんか。自分ひとりで怒りまくっていませんか。絶対に正しいと言い張っていませんか。相手の言葉を冷静に聞けなくなっていませんか。夫婦のどちらかが、相手の怒りを恐れるあまり、自分の意見を押し殺していませんか。

私たちはみな不完全です。助け手がいないと一人では何もできないのです。その唯一の助け手を否定したり、無視したり、ひどい点数を付けるなら、神があなたのそばに置いた配偶者を拒絶することになります。神を非難したアダムと同じになっています。

「あなたは、どこにいるのか。」(9節)という神の言葉が聞こえたら、低い心になって神の前に出て、神にごめんなさいと言いましょう。そして、配偶者、あるいは身近な家族に「ごめんなさい」と言える人になりましょう。それが、私達の家庭をエデンの園をする合言葉になります。

末期がんで闘病中のある男性は、ある日、奥さんにこう言いました。「僕は、死んでも君と会いたい。天国で君に会いたい。だから、僕は主イエスを信じて洗礼を受ける」

 神の「御顔を避け」た(8節)二人でしたが、黙示録22:4では、栄光のエルサレムに住む人々は「神の御顔を仰ぎ見る。」と書かれています。

「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」(第1コリント15:22)

→あなたの番です
 □「神のよう」にならない
 □「ごめんなさい」と妻や夫や子供に言う
 □救い主イエスに希望を置く