マタイ27:57~66  アリマタヤのヨセフのイースター


 ハッピー・イースター。アメリカの良い点は、スーパーのレジ係りも、飛行機の乗客も、「ハッピー・イースター」と挨拶することです。主はよみがえりました!ハレルヤ。
 今日は、アリマタヤのヨセフの姿を通してイースターを考えましょう。

1、よみがえりを<予測>した人々

さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる。』と言っていたのを思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった。』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことになります。」(マタイ27:62~65)

 主イエスは死んで三日目によみがえる。主イエスは弟子たちにそう予告しました。でも、主イエスの予告を真剣に受け取ったのは、皮肉なことに、主イエスの敵である祭司長や律法学者たちでした。十二弟子が主イエスの遺体を盗んで復活をでっちあげる危険があると、祭司長らはピラトに警告し、墓の厳重な守りを依頼しました。

 一方、弟子たちは誰ひとり復活を信じていませんでした。イースターの朝、よみがえった主イエスに会った女たち戻ってきても、「たわごと」(ルカ24:11)だと相手にしませんでした。

 主イエスのよみがえりは、誰も期待していない中で、誰も復活を信じない中で起きました。不信やあきらめや悪意の中であっても、神はみわざは行われるのです。
 あなたを取り囲む環境は、否定的で無神論的で人間の醜さばかり見える世界かもしれませんが、神が何かをしようと思われるなら何の障害にもなりません。イースターは、神が、神のみわざを、神の時に行われるという偉大な宣言なのです。

 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)


2、アリマタヤのヨセフ

アリマタヤのヨセフについて3つの質問をします。以下の箇所を読んだり、4つの福音書を読んで一緒に考えて下さい。

夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。そこで、ピラトは、渡すように命じた。ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。(マタイ27:57~60)


1)ヨセフはどんな人ですか。

ヨセフの出身地、生活の基盤は、エルサレム北部の丘陵地にあったアリマタヤでした。ヨセフという名は珍しい名ではありませんが、「アリマタヤのヨセフ」というだけで通じるほどの資産家、豪商、あるいは、著名なビジネスパーソンだったのでしょう。
2000年前のイスラエルは、政治行政と裁判所を兼ねるサンヘドリンという70人議会によって治められ、「祭司長たちも律法学者、長老たち」(マタイ27:41)という3つの階級で構成されていました。ヨセフは市民階級を代表する「長老」の立場で「有力な議員」(マルコ15:43)として名を連ねていました。ルカの福音書ルカ23:50を見ると、「りっぱな、正しい人」と呼ばれる人格者でした。その彼が、主イエスを信じたのです。


2)ヨセフが自分の墓を提供しなかったらどうなりましたか。

身寄りのない人が死んだ場合は共同墓地に埋葬されていました。でも犯罪者の場合、それも、極刑の十字架刑で死んだ者は、エルサレム城壁外のヒノムの谷のゴミ捨て場に捨てられていたのかもしれません。夜になれば野獣の餌食、昼間なら猛禽類が舞い降りたことでしょう。もし、ヨセフの新しい墓に主イエスが埋葬されなければ、主イエスがよみがえられたという有力な証拠の一つ、空の墓、という要素を失うことになったのです。


3)ヨセフが思い切って遺体の下げ渡しを申し出たのはなぜですか。

 一言でいうと、魂がふるえるほどの経験をしたからです。

ヨハネ19:38によると、「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフ」でした。恐れがありました。積み上げてきた経歴と名声を失いたくなかったのです。

以下は私の推測です。ヨセフはイエスの教えを聞き、奇跡の場面にいて、個人的にも話した。やがてヨセフは主イエスを救い主として信じ、クリスチャンになった。当時はクリスチャンという用語がなかったので、「弟子」と呼ばれていました。

自分の墓をエルサレム郊外に買い求めた事から、ヨセフは年長者であったと思われますが、自分の息子ほどの年齢の主イエスを神の子として信じるほど心の柔らかな人でした。

 ヨセフは、主イエスの死刑を決める裁判に同席しました。主イエスが鞭打たれ、十字架に付けられ、息を引き取られるまでを、一番近くで見ていた蓋然性があります。
 ヨセフは、主イエスの裁判の段取りが不当であると述べました。偽証を聞き、煮えくり返る気持ちでいたことでしょう。そして、心の中でこう叫んでいたのでしょう。<主イエスよ、今までパリサイ人を蹴散らしてきたように見事に論破して下さい。あの時見せて下さった奇跡のわざをここで行い、祭司長たちを黙らせてください。天の軍勢を呼び寄せて、兵士たちを滅ぼして下さい。あなたはおできになるのです>

 ところが、目の前におられる主イエスは、黙ったまま、殴られるがままでした。イエスが祭司長の罠にはまって苦しめられているのではなく、十字架への道を自ら進んで、死のうとしていると、ヨセフは徐々に気づいたのかもしれません。イザヤ書53章にある預言通りに事が進んでいました。
 十字架刑の総監督者の百人隊長は、「この方はまことに神の子であった」と告白しました。完了した」主イエスが死なれる姿を見て、魂が震えたことでしょう。主イエスは、臆病なヨセフのためにも死んで下さいました。ヨセフは考えたことでしょう。経歴や名声が何になろう。この方のためなら、何でもしようと心に決めたのでしょう。

 最近数年の間、NHKのドラマでクリスチャンの主人公が登場しています。新島八重、村岡花子、黒田官兵衛、「マッサン」のエリー。彼らは名声を得る中で、あるいは後に、主イエスを救い主と信じました。彼らは日本版のアリマタヤのヨセフです。

 私は、日本人弁護士でクリスチャンの方を昔から知っています。彼は、ある法律分野で著名な専門家で大学でも教え、弁護士会の会長もされました。クリスチャンだという一点だけを除けば申し分ないのだが、と周囲の人は評価するそうです。立派です。現代のアリマタヤのヨセフです。

 あなたの番です。あなたがアメリカでの駐在期間を終えて、日本に戻ったときに上司が「アメリカはどうだったかね。まさか、アメリカでクリスチャンになったなどという冗談は言わんでくれ」と言ったとしたらどうしますか。

 主イエスは、よみがえらえました。今も生きておられます。主イエスを恥じることなく生きましょう。復活の力と命は、信じる私たちのうちに力強く働いています。

「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。」(マタイ28:6)

この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。
(マタイ27:58)

 →あなたの番です
  □あなたの状態に関係なく、主イエスはみわざを行われます
  □ヨセフのように自分にできる方法で主の愛に報いましょう