見えるようになる ルカ18:35~43


 一人の盲人が主イエスに出会い、目が見えるようになりました。

1、この盲人は誰かに似ている(35~36節)

イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。(ルカ18:35~36)

 ヨルダン川流域からエルサレムに上るときは、エリコの町を通ることになります。盲人が町の門の入口付近の地べたに座って物乞いをしていました。

 この盲人と私たちには共通点があります。それは何でしょう。
①繰り返しの毎日だった。
②生活のためには嫌な事もする。地べたにも座る。
③私たちが主イエスに近づいたのではなく、主イエスが近くに来て下さった。
④盲人は主イエスの姿が見えなかったが、私たちも見た事がない。

 盲人は晴眼者に比べて敏感な耳を持っています。威圧的な王様の行列、殺気立ったローマ兵の行進、商人のキャラバン隊など、区別できまました。ところが、今、目の前を誰が通ろうとしているのが誰か皆目見当がつかないので尋ねました。


2、「ナザレのイエス」と「ダビデの子のイエス」(37~39節)

ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。(37~38節)

 「ナザレのイエス」が通過するのだと教えられました。これは、主イエスの出身地を述べた中立的な言い方ではありません。見下した言葉でした。
 総督ピラトが主イエスを十字架に付けた看板には、ナザレのイエスと書いてありました。(ヨハネ19:19)この場合の「ナザレのイエス」は、田舎者、取るに足らない者、愚か者という意味です。
 初代教会の時代、ステパノを訴えた悪意ある証人たちは、「あのナザレ人イエス」(使徒6:14)と、汚いものに触れるような言い方をしました。
 パウロがクリスチャンを迫害するためダマスコに向う途中、復活の主イエスに会いました。主イエスは、「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ」(使徒22:8)とあえて言われました。

 「ナザレのイエス」だと聞いた途端、この盲人は「ナザレのイエスよ」と言わず、「ダビデの子のイエスさま」と大声で叫びました。盲人は、2~3年の間、主イエスによる病気のいやしと主イエスの教えを伝え聞いていたのでしょう。イエスさまこそダビデの子、旧約聖書が預言したダビデ王の子孫として生まれてくるメシア、救い主だだと確信していたのです。盲人の精一杯の信仰告白としての叫びなのです。

 あわれんでください、という言葉は日常的には使いません。自分で自分を救えない状態であると認めなければ言えません。あわれんで下さいという言葉を因数分解してみましょう。目をとめてください。愛してください。勇気をください。救ってください。罪をゆるしてください。そばにいてください。色々な意味が含まれるでしょう。

 あなたは、「ナザレのイエス」と呼びますか、「ダビデの子」救い主と呼びますか。


3、何をしてほしいのか(40~43節)

彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。(39~40)

 盲人の声がうるさかったので周囲の人に制止されましたが、彼は止めません。最後に彼の声は主イエスに届きました。あなたの声も、主イエスに届きます。祈り方が分からなくても、あなたの真実さは主イエスに届きます。あなたも祈って下さい。

彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と主イエスは尋ねられました。盲人は躊躇なく、「主よ。目が見えるようになることです。」と返事しました。(41節)

「わたしに何をしてほしいのか」という質問は、核心を突くものでした。

 イエスさまに同じように今日聞かれたら、あなたはどうしますか。
 大金持ちにしてほしい、ハンサム、美人にして下さい、とイエスさまに言いますか。人間関係の改善。夫婦が仲良くなるように。能力を下さい。大学、就職、結婚、子供を下さい。病気を治してください。罪をゆるして下さい。そう願いますか。
 盲人は、きっと声をからしていたでしょう。「主よ。目がが見えるようになることです。」と答えました。

 彼の願いは、金や欲望に関した求めでなく、復讐の実現でもありません。普通の人にして下さい、という願いでした。見えるだけで良いという謙虚な願いです。

イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。(42~43節)

いやす力が主イエスの力であることは大前提です。あえて「あなたの信仰があなたを直したのです。」と主イエスは言われ、盲人の信仰を自覚させました。この盲人の信仰とはどんな信仰でしょうか。
①「ダビデの子」と確信をもって呼べる信仰告白。
②主イエスとの人格的交流を求めた態度。
③主イエスが目を開ける力を持つ方だと信じたこと。

 盲人の目はたちどころに開きました。男は神をあがめ、主イエスについて行きました。民は、驚き、神を賛美しました。

 あなたの人生にも、同じことが起きます。主イエスを信頼することにより、今まで見えなかったものが見えるようになります。

 ある男性は、奥さんを礼拝に車で送っているうちに礼拝に出るようになり、自分の罪を認めてクリスチャンになりました。しばらくして、はっと気づいた事がありました。「妻がいた!」今までは自分の仕事と将来の事しか眼中に無かったのですが、愛してくれている妻がいたと分かったのです。これからは自分が妻を愛していこうと思ったそうです。見えるようになったのです。

「私をあわれんでください。」 「わたしに何をしてほしいのか。」

 →あなたの番です
  □ナザレのイエスでなく、「ダビデの子」と信仰告白しましょう
  □あわれんでくださいと祈りましょう。
  □目が見えるようにして下さい、と主イエスに願いましょう