アモス書、ホセア書

 今回は、アモス書とホセア書の二つを一緒に取り上げます。二人は、北王国イスラエルで活躍した預言者です。

1、繁栄の陰を暴く   <アモス書>

「私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。」(アモス7:14)とあるように、アモスは南王国ユダのベツレヘムに近いテコアで働いていた一介の農夫でした。

アモスが預言者として神に召されたのはBC760年頃です。北王国イスラエルはヤロブアム二世の時代で極めて繁栄していました。指導者や金持ちだけでなく、庶民たちも真の神から心は離れ、経済的な繁栄に浮かれていました。

繁栄の陰に不正あり。
誰かが極端に大もうけする時は、他人の利益の横取り、弱者の抑圧、詐欺、暴力、不正な裁判などが隠れています。
南王国から来たよそ者で農夫にすぎないアモスが、王たち、金持ち、権力者の悪を痛烈に批判しました。アモスは言います、このままでは国は滅びる、飢饉が来る、「主のことばを聞くことのききんである。」(8:11)と述べました。

「あなたがたは貧しい者を踏みつけ、彼から小作料を取り立てている。それゆえあなたがたは、切り石の家々を建てても、その中に住めない。美しいぶどう畑を作っても、その酒を飲めない。私は、あなたがたのそむきの罪がいかに多く、あなたがたの罪がいかに重いかを知っている。あなたがたは正しい者をきらい、まいないを取り、門で貧しい者を押しのける。それゆえ、このようなときには、賢い者は沈黙を守る。それは時代が悪いからだ。善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。悪を憎み、善を愛し、門で正しいさばきをせよ。万軍の神、主は、もしや、ヨセフの残りの者をあわれまれるかもしれない。」(アモス5:11~15)

もしアモスが現代に現れたら厳しく批判したことでしょう。政治家と組んで自分達に都合の良い法律を作らせる金持ちを糾弾したはずです。タックスヘイブンを利用して税金逃れを行う富豪や多国籍企業を責めたことでしょう。その代償は庶民が負わされています。安価だけれど有害物質を含んだ製品を作る大企業は、被害が出るまで放置します。企業は人件費を削るために、アルバイトや派遣など不安定雇用を押し付けます。訴訟になれば、敏腕弁護士を雇って黒を白にします。「あなたがたは正しい者をきらい、まいないを取り、門で貧しい者を押しのける。」というアモスの言葉は現代にも通用します。

「公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。」(5:24)

 神を信じる者は神の姿に似てくるので、正しい行為を愛するようになります。あなたも今週、職場でも、家庭でも、嘘や不正を避けて正しく歩みましょう。
 富を求めるのではなく、神ご自身を求めましょう。

 「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」(4:12)
「わたしを求めて生きよ。」(アモス5:4) 「主を求めよ」(5:6)



2、神に立ち返れ  <ホセア書>

 神の言葉を書き残した北王国出身の預言者はホセアしかいません。北王国イスラエルは紀元前722年にアッシリヤによって滅ぼされましたが、ホセアはヤロブアム二世の時代の治世から、王国が滅んで行く姿をリアルタイムで目撃しました。

ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアにあった主のことば。主がホセアに語り始められたとき、主はホセアに仰せられた。「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。」(ホセア1:1~2)

 ホセアの活動のユニークさは、その結婚生活にあります。姦淫の女を引き取り、結婚せよと主はホセアに命じ、彼はそれを実行しゴメルと結婚しました。
 妻ゴメルは子供たちを産んだ後、再び身を持ち崩し他の男に走り、奴隷の身分に落ちぶれました。「夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。」(3:1)と主はホセアに命じ、ホセアは銀15シェケルと大麦1ホメル半を払って妻を買い戻しました。
 ホセアの妻ゴメルはイスラエルを象徴しています。姦淫の女を見捨てずに愛し、犠牲を払って買い戻すホセアは神を象徴しています。

「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(ホセア6:1~3)

あなたはボロボロの姿では神に戻れないと考えているかもしれません。自分できれいになれるのなら救い主は必要ありません。
主イエスが放蕩息子のたとえ話をされましたが、立ち返ることがどんな事かを教えてくれます。奴隷に身をやつした息子を見て、父親は走り寄って抱きしめ、新しい服と靴をご馳走を与えます。それが神の愛です。
罪のまま、みじめな姿のまま、そのままで構いません、主に立ち返りましょう。主のもとに戻る。それが人間にとって最も大事なことです。主のもとに立ち返ると平安がやってきます。罪の赦しを確信できます。

主に立ち返ると、次に、私たちは本来自分が立つべき場所にしっかりと立つことができます。心を通わせる夫婦になれます。愛し合う家族になれます。誠実な社会人になれます。

わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。(14:4)

あなたも、主に立ち返りましょう。

「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、
私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。」

→あなたの番です
  □正しく生きよう
  □主に立ち返ろう。