ルカの福音書


 主イエスの優しさが溢れている。それが、ルカの福音書の特徴です。

1、ルカの福音書の特徴

私たちの間ですでに確信されている出来事については、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。(ルカ1:1~3)

 異邦人の医者ルカ(コロサイ4:14)は、テオピロのために主イエスの生涯をまとめました。テオピロはローマ人で、学識があり、高い地位と豊富な財産のある人物のようです。そのために、正確な年代確認(2:1~2、3:1)、目撃者への取材(1~2章の母マリヤの思い出など)が行われ、ギリシャ語文体も洗練されていました。

ルカは、パウロの伝道旅行に同行し(使徒16:11)、獄中のパウロを最後までサポートしました(第2テモテ4:11)。後の教会指導者イレナエウスによると、ルカはパウロの宣べ伝えた福音を一巻の書に記したと述べています。
           
 ルカが新たに福音書を書いた目的は、イエスの生涯の記録をテオピロに献呈するためであり、主イエスの優しさを知ってもらうためでした。
 良きサマリヤ人のたとえ(10章)、放蕩息子のたとえ(15章)、律法学者と取税人の祈りのたとえ(18章)は、いずれもルカ独自のたとえ話で、差別された人々や罪人への温かい視線が感じられます。

 主イエスは、裏切る前のペテロに、「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)と言われました。これはルカ独自の記事です。裏切った直後に「主が振り向いてペテロを見つめられた」(22:61)と書いてあるのもルカの福音書だけです。


2、ナインの女

それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。(ルカ7:11~15)

このナインの未亡人についての記述もルカの福音書だけにあります。
夫に先立たれた女性のそばにいたのは、成長した一人息子だけでした。でも、その子が死にました。主イエスは、「かわいそうに」思い、「泣かなくてもよい」(7:13)と言われました。この「かわいそう」という言葉は、良きサマリヤ人が倒れた旅人を見つけた時の感情と同じで、放蕩息子を迎えた父親の気持ちでもありました。(10:33、15:20)主イエスは、棺おけに手をかけて行列を止め、息子を生き返らせました。

主イエスは、社会的な弱者であるこの女性の悲しみに寄り添ってくれました。

今日、あなたは悲しんでいますか。主イエスは、あなたの横におられます。


3、ザアカイ

それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:1~10)

 取税人制度はローマ帝国全土にありましたので、ローマ人のテオピロにとっては興味深い話でした。他人の苦しみなど意に返さない悪人、金の亡者の取税人の心は誰も変えられません。ところが、ザアカイは、主イエスを家に迎え入れた後、破産覚悟で罪の償いとチャリティーを行いました。

 ザアカイを変えたのは、主イエスの愛です。主イエスはまるで旧友のようにザアカイに接し、「今日は、あなたの家に泊まることにしてあるから」(19:5)と言って泊まりに行きました。ザアカイは、大喜びです。病気が治ったわけではないのに、大喜びしたのは福音書でザアカイだけかもしれません。真の友、主イエスを得た喜びが、罪の悔い改めの原動力になりました。

 主イエスはあなたの友達です。主イエスと一緒なら、人生のやり直しが可能です。


4、十字架上の犯罪人

十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:39~43)

主イエスが3本の十字架の真ん中につけられたと4つの福音書は語ります。その一人の犯罪人が回心したのは、ルカだけの記述です。
極悪人しか十字架刑にはなりません。二人の犯罪人たちは、手に打ち込まれた釘の苦しさから、「イエスといっしょに十字架につけらた強盗どもも、同じようにイエスをののしった」(マタイ27:44)と書いてあります。朝の9時から正午までの間に、男の心に何かの変化があったのです。

主イエスは、ご自分を十字架につける人達のために祈りました。それを聞いて、男の心が変化したのかもしれません。男は、自分の罪の醜さをはっきりと認識しましたが、今日死んだら天国に入れて下さいとは主イエスにお願いしませんでした。「私を思い出してください」(3:42)とだけ言いました。主イエスは、その男の心を知り、大丈夫、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(23:43)と言ってくれました。

人生の最後の瞬間に罪を悔い改め主イエスを信じた男であっても、主イエスは彼の罪をゆるし、受け入れてくれました。主イエスの愛が届かない場所は地上にありません。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)

→あなたの番です
 □あなたは、悲しむ者、嫌われ者、犯罪者かもしれません □主イエスは、その誰をも愛し、ゆるし、希望を与えてくれます
 □あなたも、主イエスに似た者になれます