ヨハネの福音書


 「ヨハネの福音書」は他の福音書の後に書かれ、ずいぶん違う内容です。その違いこそ、ヨハネが言いたい点なのです。

1、イエスは、神

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネの福音書1:1~3)

 イエスは世界を創造された神だ、とヨハネは大胆に述べました。「ことば」の部分に「イエス」を入れ替えて読めば、ヨハネの真意が分かります。

2~11章で、ヨハネは7つの奇跡を取り上げました。(そのうち5つはヨハネだけに書いてあります)神でなければ実現不可能な奇跡ばかりです。これらの奇跡を実際に目撃者したヨハネは、イエスは神であると結論づけたのです。

①(2章)水をぶどう酒に変える
②(4章)遠隔地の子どもをいやす
③(5章)38年間病気だった人をいやす
④(6章)わずかなパンと魚で5000人に食べさせる
⑤(7章)ガリラヤ湖の水の上を歩く
⑥(9章)生まれつきの盲人の目を開ける
⑦(11章)死んで葬られたラザロを生き返らす。
 
  主イエスは、ご自分が神であることを何度も証言しておられます。

 アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。(8:58)
 わたしと父とは一つです。(10:30)
 わたしを見た者は、父を見たのです。(14:9)
 世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。(17:5)

主イエスは、まことの神です。だから、信じるに値します。
 

2、イエスは、いのち

 20章31節を読むと、<主イエスを信じて、いのちを得てもらう>ために福音書を書いたと分かります。「いのち」こそ、ヨハネの福音書のキーワードです。

しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。(20:31)

 主イエスと無関係に歩いていた時、私たちは死んでいます。嘘をつき、悪いことを行い、人の人格を踏みつぶし、人を裏切っても、罪意識を感じないなら、死んでいます。大人なのに、自分のことしか考えられないなら、死んでいます。いのちがありません。

さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3:1~3)

 主イエスは律法学者ニコデモと対話し、あなたには「いのち」がない、神によって新しく生まれる必要があると教えました。ニコデモは、そのいのちを得ました。

 「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(4:14)

 サマリヤの女は5回結婚に失敗し、いのちが枯渇していました。わたしを信じるなら、心の内側からいのちがあふれ出ると4章で主イエスは約束され、その通りになりました。

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(3:16)
 
 他の3つの福音書は、主イエスが私たちの罪を赦す方であり、過去の問題は解消したと教えてくれます。ヨハネの着眼点は、現在と未来にあります。主イエスは神なので、今、あなたにいのちを与えてくれます。将来に向かっては、あなたに永遠のいのちを約束して下さいました。

 主イエスを信じたあなたに、新しいいのちが始まりました。


3、イエスに、とどまれ

 イエスを信じていのちをもらった人は、どう生きたらよいのでしょう。12~17章にその解答があります。この箇所は、他の福音書にありません。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(13:34)

 自分と同じように隣人を愛せ、と他の福音書に書いてありますが、ヨハネの福音書では、「わたしがあなたを愛したように」、「互いに愛し合いなさい」と言われています。

 たとえば、最後の晩餐の席で主イエスは跪き手ぬぐいで十二弟子の足を洗いました。(13:1~15)トマスは復活を信じられずに暴言をはきましたが、主イエスはトマスに現れ優しく接してくれました。ペテロは3度主イエスを裏切りましたが、主イエスは3度「わたしを愛しますか」(21:15)と語りかけ、ペテロに再出発のきっかけを与えました。主イエスは各人にスペシャルな方法で愛を伝えました。あなたも思い出して下さい。主イエスに愛されたように、身近な人を愛しましょう。

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(15:4~5)

 人を愛すことは簡単な事ではありません。主イエスにとどまり続けるなら、それは可能です。イエスさまはぶどうの木で、いのちの源です。主イエスという幹につながっていれば実を結ぶことができます。

 1955年夏の北海道で、三十一歳の三浦光世さんは、結核で寝たきりの綾子さんを初めて見舞いました。何回目かの訪問の時、どうぞ綾子さんを治してください、そのためなら私の命を差し上げますと彼女の前で声に出して祈ったそうです。4年後、二人は結婚し、奥さんの体調も良くなり、綾子さんは小説『氷点』を書き、小説家になりました。
 ご主人の光世は、綾子さんを愛する愛の源泉を常に主イエスに求めていたそうです。


「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」(15:4)
 
 →あなたの番です
  □イエスは、神です
  □イエスは、いのちです 
  □イエスに、とどまりましょう