マタイ3:1~12 バプテスマのヨハネ

 一人のテニス審判がこう言い残して死にました。「あの試合は清水が勝っていた。」
 1921年のデビスカップで、日本の清水善造選手とアメリカのチンデル選手が戦い、清水選手の鮮やかなサーブが決まり、チンデル選手は握手のためにネットに歩み寄った時でした。審判のフォーテスク氏は、ボールがネットにかかったと宣言しました。落胆した清水選手はそれをきっかけに崩れて試合に負けました。ボールはネットに触れていません。誤審ではありません。日本人に負けたくなかったのです。
 何年間も、フォーテスク氏は自分の過ちを忘れることができず、告白してから亡くなりました。

 人は、自分の人生を清算したいと思っています。そのきっかけを探しています。
 


1、荒野の矢印

そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。(マタイ3:1~4)

私が映画監督なら、この箇所を以下のように撮影します。
最初のシーン:荒涼とした死海周辺の景色が左から右にゆっくり見せます。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」という声が聞こえ、叫んでいる人物は映しません。ヨハネの本質は声だからです。ヨハネが活動した場所は、死海にヨルダン川が注ぎ込む付近の荒野。ヨハネのメッセージは主イエスと同じで、悔い改めと神の国です。主イエスを信じた後、あなたも、神の国を建設することが人生の主な目的になります。
第二のシーン:道行く旅人に叫ぶ男の姿をカメラで下から上に見せる。らくだの毛皮の着物、皮のベルト、伸びきった髪の毛。2000年前のユダヤでも、こんなワイルドな服装をした人は皆無でした。預言者エリヤを彷彿させます。
第三のシーン:ひげ面の口をクローズアップ。イナゴが放り込まれてむしゃむしゃと食べる。棒の先に付けられた蜂蜜が口に入る。これが荒野で手に入る食料でした。
第四のシーン:洗礼者目線でヨルダン川の水中から上がる場面を撮る。そこにヨハネの顔のクローズアップ。イザヤ書40章3節の言葉が画面に映し出され、ナレーションが入る。「彼はバプテスマのヨハネと呼ばれた男、救い主の道を用意する預言者、荒野で叫ぶ声」

ヨハネが祭司の家系に生まれ、救い主の道を整える者になると出生前に天使が告げられた人物(ルカ1章)だったことを、マタイは意図的に書きません。
ヨハネの本質が、荒野で叫ぶ声だからです。彼は救い主を指し示す道先案内の看板です。ただただ、人々に罪の悔い改めをうながし、救い主に会う備えをさせました。

私たちもバプテスマのヨハネと同じ使命を与えられています。生活の場で、職場で、学校で、どこででも、救い主イエスがいると矢印を出しましょう。


2、人生のリスタート

さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。(3:5~10)

 バプテスマのヨハネは、誰も恐れずに同じメッセージを語りました。ヨハネは国主ヘロデの罪を指摘し(14:4)命の危険も恐れません。宗教家のパリサイ人や祭司のサドカイ人にも手加減しません。お前たちは偽善者だ、お前の本質は毒蛇だ、まむしの末だ。悔い改めの実を結ばないなら、形式的なバプテスマは無意味だと責めました。実を結ばない木を農夫が斧で切り倒すように、罪人には神の処罰が待っていると告げました。

 なぜ、こんなに男たち女たちが、わざわざ荒野までやって来て、バプテスマを受けたのでしょう。ヨハネは、神の愛を語りません。優しい言葉や慰めを言いません。罪を悔い改めよと命じただけですが、立派な大人たちが公の場で自分が罪人だと告白したのです。

 人はみな、過去を清算したいのです。ごめんなさいと神に言って、人生をやり直したいのです。

 昔、朝日新聞の投書欄に中年男性の告白がありました。つまらぬ事で、夫婦が言い争いになり、妻が出て行く言い出しました。奥さんが荷造りしたバックの中身をちょっと見ると、テッシュペーパーに包んだ宝石類がありました。女房が自分で買った安物で、目の奥がつんとしました。俺は、今まで指輪ひとつ買ってやったことがない。すまん。オレが悪かったと、書いてありました。素直にゴメンがいえない中年男の悲哀です。
新聞に投稿せずに、ごめんなさいを奥さんに言いなさい!と思いました。

今日、あなたは、ごめんなさいと言いたい事がありますか。神に向かって罪を悔い改めましょう。必要ならば、目の前の人にも、ごめんなさいをきちんと言いましょう。

自分の犯した過ちを進んで告白した人がいたら、その勇気をたたえ、良く言ったと受け止めてくれる家庭や職場があったら素晴らしいと思います。ごめんなさいと子供に言える父親。私が悪かったと夫にあやまれる妻。そんな互いを抱きしめられる家庭になりたい。
 

3、救い主を指し示す

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(3:11~12)

 ヨハネは、自分が尊敬されること、目立つことを嫌がりました。自分は救い主を指し示すだけの看板だ。口から発したら消えてしまう荒野の声に過ぎない。だから、救い主の履物を脱がせる価値もないと言いました。
 また、ヨハネは水のバプテスマをさずけるが、救い主のイエスは聖霊のバプテスマを授けて下さり、人々を聖霊の交わりと守りの中に入れてくれる方だと説明しました。自分と主イエスは次元が違うと述べました。
 主イエスは救い主ですが、世の終わりには裁き主にもなるとヨハネは語りました。ちょうど農夫が脱穀された麦を箕に入れ、風の力で籾殻を飛ばして実を選別し、いらない部分を焼いてしまうように、世の終わりに主イエスも同じことをされると述べました。
 だから、悔い改めるなら、今、なのです。

 今日のポイントは二つあります。
 罪を悔い改めて、人生のリスタートをしましょう。
 ヨハネのように、主イエスを指し示す矢印になりましょう。矢印は立派である必要はありません。まっすぐ主イエスを指させば良いのです。

 ロンドン市内の駅でアジア人女性を見つけ、「おいしいインド料理の店を近くで知っていますか」と私たち夫婦が尋ねたことがありました。彼女は親切に教えてくれて、実は日本人でした。話の最後に彼女は、「私は日曜日は教会に通っています。今度の日曜日においでになりませんか」と言いました。私たちはにっこりして、牧師夫婦であることを告げました。その数週間後、私はその教会の礼拝でメッセージを語らせてもらいました。
 あなたも、あなたの方法で矢印になれます。

 →あなたの番です
  □罪を悔い改めよう
  □いつでも、主イエスを指し示す矢印になろう