マタイ3:13~17 父の眼差し


 私の手元に、私の子供時代の白黒写真があります。父が仕事で乗船していた貨物船の煙突を背景に、5歳くらいの私が両手を腰にあて、誇らしげに父の帽子をかぶって笑っている写真です。父の船に初めて乗れた喜びが見て取れます。
 この写真は父がシャッターを押したのだと最近になって気づきました。父の優しさや喜びや希望がこの写真に込められていたと分かってじーんとしました。
 今日の聖書箇所には、御子イエスに注がれた父なる神の愛に満ちた視線が見て取れます。


1、正しい事をする

さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。(マタイ3:13~15)

 主イエスの公生涯の第一歩は、正しいことを行うことでした。
バプテスマをさずけて欲しいという主イエスの願いを聞いて、ヨハネは強く拒否しました。それは、主イエスが罪のない方で(第1ヨハネ3:5)、罪の悔い改めのバプテスマは不必要だったからです。主イエスが神の御子で、ヨハネは主イエスの靴の紐を解く値打ちもないと理解していたからです。

 「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」と主イエスは言われました。神は正しいことを行う方であり、神に造られた私たち人間も正しいことを行うように造られているのです。
考えてみましょう。あなたの身の回りにある正しいことは何ですか。職場で正しいこと、家庭で正しいことは何ですか。正しいことを実行しましょう。

悪いことではなく正しいことを選ばれたというだけでなく、主イエスは謙虚に正しいことをされました。主がバプテスマを受けるという事は、謙虚さの極みです。私たちが正しい事をする時も、謙虚さを忘れないように。

 もう一言。主イエスを信じた人で、まだバプテスマを受けていない人がいるなら、受けてください。一般の人は、バプテスマは立派なクリスチャンの印と思い込んでいますが、それは誤解です。バプテスマは卒業式ではなく、入学式です。



2、三位一体の神のフェローシップ

こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。(マタイ3:16)

聖霊は、この時、目に見える形をとって主イエスに下りてこられました。聖霊を見たのは主イエスだけではありません。バプテスマのヨハネも、鳩の姿をとった聖霊が下るのを見たと証言しています。(ヨハネ1:32)
鳩の姿は、聖霊が主イエスのもとに、天から下って来たことを表しています。また、平和の象徴の鳩が、聖霊の優しさを示しています。主イエスの生涯はすべては、聖霊と共に歩む日々になりました。

また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)

 聖書には三位一体の神に言及している箇所が複数あります。たとえば、マタイ28:19、ヨハネ15:26、第二コリント13:13、などは有名です。
今日の場面は、三位一体の神が、歴史の中で、人の目や耳で確認できた唯一の瞬間という意味でとても貴重です。主イエスが神の子であり、まことの救い主であることを客観的に証明する歴史的事実です。

父なる神は天の高みから地上の主イエスに「愛する子」と言われました。主イエスは父なる神から熱烈に愛されていました。主イエスも、十字架にかかるまでの日々に父なる神からの愛がどうしても必要だったのです。
聖書の中で、父なる神が特定の人物に対して、心からの喜びを表したことは、歴史上、この箇所以外はありません。

父なる神は、主イエスがへりくだって洗礼を受けた姿を喜び、これからの活動を応援されました。あなたはわたしの子、わたしはあなたを愛する、あなたの存在は私の大きな喜びだと、父なる神は大声で言われたのです。それは、私たち人間のためというより、愛する一人息子に対する声援だったのです。

1992年のバルセロナオリンピック陸上400mの準決勝で金メダル候補の一人、イギリスのデレク・レドモンド選手(Derek Redmond)は良いスタートを切りました。160mまで走ったところで肉離れを起こし、激痛に顔をゆがめてしゃがみこんでしまいました。ストレッチャーで搬送しようとした医療チームを振り払い、17歳のデレクは片足で走り始めました。しばらくすると一人の中年男性がコースに出て来て、デレクに肩を貸して何かを言いました。それは、デレクの父親のジムでした。「もう走る必要はない」と父が言うと、「最後までやる」と息子は答え、「それなら、一緒にゴールしよう」と父は語り、二人でゴールしました。65000人の観衆は立ち上がって二人の健闘をたたえました。
父の眼差しは息子に注がれていました。

主イエスのバプテスマの瞬間、父なる神の眼差しはひとり子イエスに注がれていました。主イエスの十字架に至る走路には数々の困難の待ち構えていました。へりくだってバプテスマを受けるところから一歩を踏み出した御子イエスを父なる神は喜び、天からはっきりと声をおかけになりました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」主イエスも、その声でどんなに力づけられたことでしょう。

主イエスは、神の国は近づいたと宣言されました。愛を注ぐ父なる神。鳩のように穏やかな聖霊。謙虚な神の御子イエス。この三位一体の神の温かい交わりこそが、神の国の始まりを知らせています。私たちもそのフェローシップに招かれています。

仲良し家族の夕食に招かれたゲストにように、私たちも神の愛の交わりの中に包まれ喜びをもらいましょう。そのような交わりの中で、私たちは正しいことを謙虚に行えるようになるのです。


→あなたの番です
 □正しい事を謙虚に行いましょう
 □三位一体の神とのフェローシップの中で生きていこう