マタイ12:1~8  安息日の主

 パリサイ人は主イエスをねたみ、事あるごとに訴える口実を見つけていました。パリサイ人のデマ、悪口、嘘、詭弁を主イエスは放置しませんでした。悪い情報を放置しておくと既成事実のように拡散されてしまうからです。
12章はパリサイ人と主イエスの議論がまとめられています。こうした摩擦を通しても、主イエスがどんな方なのかが浮き彫りにされていきます。


1、パリサイ人からの批判

そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」(マタイ12:1~2)

律法学者パリサイ人は、主イエスと弟子たちの行動をスパイのように探っていました。ある安息日、十二弟子はひもじくなり、歩きながら穂を摘んで、籾殻を外し、硬い実を口に入れてお腹の足しにしました。
それを観察していたパリサイ人は、律法違反だと主イエスを責めました。収穫と脱穀という仕事をしたとみなされたのです。重箱の隅をつつくとはこのようなことです。

パリサイ人を反面教師として、職場や学校や家庭の自分の姿を見直しましょう。自分より後輩・若い・優れた人に嫉妬していませんか。些細な欠点を指摘して意地悪していませんか。

神が教えて下さった律法はシンプルで、基本中の基本は十戒です。安息日には仕事をしてはならない(出エジプト20:10)という十戒の規定を弟子たちが破ったことになるのでしょうか。主イエスは、弟子たちの行動が律法違反と考えません。

律法学者らは、律法を守るための613の細則を作りました。安息日に歩いて良い距離は片道約900m、持ち上げてもよい重さは干しイチジク程度などと細かく規定しました。現在でも、イスラエルのホテルは安息日モードのエレベーターがあり、ボタンを押さなくても各階で自動で開閉します。

神が安息日を造った目的が何であったのか、神の本来の意図を理解すれば、枝葉の議論に入ることも、お互いが監視する必要もありません。
安息日は、礼拝する日です。男性が日常の仕事を止め、女性たちも料理、家事、育児から完全に開放され、休めます。父親は妻や子供たちと一緒に過ごします。
礼拝と休息と家族との語らい。それが安息日の目的です。安息日によって、人は生き方のリセットができるのです。



2、主イエスの反論

しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。(マタイ12:3~6)

 主イエスは、ダビデの例と安息日に働く祭司の例をを取り上げて、反論されました。
ダビデがサウルに追われていた時、祭司以外は食べてはならないパンを祭司から分けてもらって食べました。(第1サムエル21:1~6)ダビデに神の罰は下りませんでした。

 祭司たちは、安息日なのに神殿で働きます。安息日に労働することは厳に禁じられていますが、祭司の場合は例外として働くことが認められています。

 安息日の本来の趣旨をきちんと受け止めているなら、些細な点は問題ないのです。



3、「安息日の主」の意味

『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。」(マタイ12:7~8)

 パリサイ人は「罪のない者たちを罪に定め」た、と主イエスは断言されました。十二弟子は律法を犯していません。律法の細かい規定を守ったか、守らなかったか、という顕微鏡的な批判は無意味です。

いけにえより、神はあわれみを好む方だという旧約聖書の言葉(ホセア6:6)を主イエスは引用され、神の意図を説明されました。あわれみという言葉は、新改訳聖書2017では、「真実の愛」と訳されています。主イエスは真実の愛で私たちを愛してくださっています。私たちも、真実の愛で神を愛します。私たちと主イエスの関係が真実の愛によって相互に深まっていくなら、安息日律法に違反することはあり得ません。

 「人の子は安息日の主です」
 
 「人の子」は、詩篇などでは、人間と同じ意味で使われています。一般の人が、主イエスのこの発言を聞いたなら、ご自分を低くされた謙虚な方だと感じたかもしれません。
 もう一方で、旧約聖書の預言書で用いられる専門用語としての「人の子」があります。この場合の「人の子」はメシヤの呼称です。「人の子」は神の遣わされる救い主です。また、終わりの日に世界をさばく主です。
主イエスは大胆に、ご自分が主であると宣言しておられます。実に大胆で、確信に満ちています。安息日が作られた目的は主イエスにあると公言されています。パリサイ人たちはきっと怒り心頭に達したと思われます。

主イエスが安息日の主であるという意味を説明してみます。
安息日に礼拝すべき方は、主イエスである。
安息日に、真の休みを与えて下さる方は、主イエスである。
安息日が作られた目的は、主イエスにある。
主イエスを神の御子として受け入れ、安息日に主イエスを見上げればすべては満たされるのです。To get the son, get everything.

 「人の子は安息日の主です」

 →あなたの番です
  □重箱の隅をつつく批判を止めよう
  □安息日を本来の安息日に取り戻そう
□主イエスこそ、安息日の主です