マタイ12:15~21 くすぶる燈心


1、多くの人がついて来た

イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。
(マタイ12:15~17)

 主イエスが安息日にも関わらず手のなえた人をいやされました。パリサイ人は主イエスの言葉を聞き行動を見て反発を強め、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談を始めました。パリサイ人の悪巧みを察知した主イエスは、その会堂から立ち去られました。彼らとの無用な摩擦を避けるためでした。会堂を去る時、主イエスは何を考え、何を感じておられたのでしょう。

 もし、あなたが、主イエスの立場だったら、その後の立ち振る舞いをどうしますか。パリサイ人を刺激しないように、安息日に人をいやす事を止めると考える人も多いでしょう。ウィークデイにも、病人を治す行為を控えるかもしれません。誰もが命は惜しいものです。

「すると多くの人がついて来た」とマタイは書きました。主イエスと行動を共にしていたマタイは、会堂を出た後に起きたことを目撃していました。この記述の流れを自然に受け止めれば、同じ安息日に、会同から出て来た主イエスの後に多くの人々が続いたことになります。

あなたが、その日、道端に立っていたとしましょう。主イエスの後を歩く人々の様子を見ていたなら、何を感じるでしょう。私なら涙が出てきます。

多くの人とは、生まれつきの障がい者と直る見込みのない病人だったはずです。取るに足らない人たち、やっかい者、無駄飯食い、邪魔者、生きる価値などないと一方的にレッテルを貼られてしまう人々かもしれません。ヒットラーなら全員ガス室送りです。

足を引きずっている人もいたでしょう。担架に乗せられた歩けない人もいたでしょう。余命宣告を受けた人、臨終を迎えた人。誰かに助けられてやって来た盲人。ひどい皮膚病を全身にわずらった人。
体だけでなく、心が病んだ人もいたでしょう。私など生きていてもいなくても同じだと落胆した人。愛する人を失った人、夢がかなわなかった人、失敗した人。大きな罪を犯した人。そういう人も加わっていたかもしれません。

折れてしまった人、今にも消えて滅んでしまいそうな人、それがこの人々でした。

これらの人々は、主イエスのうわさを聞いて、心に明かりが灯ったのです。きっと治していただけると信じるようになったのです。

主イエスは、こうした人たちを見捨てません。安息日に病人をいやしたら、パリサイ人の怒りをかい殺害されると分かっていても、主イエスは一人一人をいやしました。これが主イエスなのです。

大丈夫、直るよ。あきらめなくていい、やり直せるよ。あなたが必要だ。あなたには価値がある。わたしはあなたを、そのままで愛してる。自分で自分に「私はダメだ」とシールを貼ってはいけない、あなたは大丈夫だと主イエスは言われるのです。

ただし、直った自分をみせびらかしたりしない、主イエスのことを吹聴しないようにと念を押しました。パリサイ人を無用に刺激したくなかったのです。

あなたは、今日の聖書の箇所のどこにいますか。

「すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし」(マタイ12:15)



2、イザヤの預言が成就した

「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。異邦人は彼の名に望みをかける。」
(マタイ12:18~21)

主イエスのこのような姿を見て、マタイは約700年前のイザヤの預言が成就したと確信しました。それで、イザヤの言葉を引用しました。この聖句は、4つの福音書でもマタイだけが用いている箇所です。主イエスの姿がイザヤの預言と重なったのです。

 預言者イザヤによると、まことの救い主は、父なる神がもろ手を上げて喜ぶ人だと言っています。見なさい、この人こそわたしが愛し信頼する者だと父なる神が言われる人です。
 言い争ったり戦争をして権力を握るタイプの救世主ではありません。大きな声で選挙演説をして口だけで人気を集める人でもありません。ユダヤ人から嫌われ見下された異邦人にさえ救いの手を伸ばす方です。異邦人は主イエスに望みをかけるのです。

 本当の救い主は、折れそうになった葦のよう人や芯がだめになって消えそうなランプのような人を思いやり、支え、力づけ、新たな希望を与える方です。
 折れそうな葦、消えそうな燈心は、最も弱い存在を示します。人々が見向きもしないもの、価値のないものです。主イエスは、そうした人々に目を留め、生き返らせ、輝かせてくださる方なのです。

 「彼はいたんだ葦を折ることもなく、
くすぶる燈心を消すこともない、
公義を勝利に導くまでは。
異邦人は彼の名に望みをかける。」(20~21節)

 「辛い」という漢字を「幸い」という漢字に変える方法があります。辛い自分の上に十字架を乗せると幸福の幸の字ができます。辛いとき、主イエスを見あげるなら幸いが来るのです。自分などダメだと考えてつぶれそうな時は、主イエスをあなたの上に置いて下さい。

 →あなたの番です
  □主イエスは人々をいやし、私をいやされた
  □いたんだ葦、くすぶる燈心は生き返る