マタイ13:1~24 種まきのたとえ

 あなたの人生を、実り豊かな人生にしましょう。どうしたら、そうなれるのでしょう。


1、たとえで話す不思議

イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。
「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」
すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」(マタイ13:3~10)

 主イエスは、舟に乗り、腰をおろして、岸辺に集まった群衆に話をされました。十二弟子は、主イエスの話し方に驚きました。山上の垂訓(マタイ5~7章)のような話し方ではなく、たとえだけで話を終えられたからです。弟子たちは不思議に思い質問しました。なぜ、たとえで話すのですか。何の解説もしないなら、農業の話です。
 主イエスが話した内容は、誰でも知っていることでした。聞いた人は、それがどうしたんだ、という気持ちになってしまいます。



2、たとえで話す目的

イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』マタイ13:11~15)

 難しいことを易しく解説するために用いるのが、通常のたとえです。主イエスのたとえは、それと異なりました。信じようとする人には深い理解と鮮明な印象を与え、聞く気のない人には無駄な話だと思わせる効果がありました。聞く人を分けるのです。

「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないから」だと主イエスは言われました。
語られる神の言葉は同じでも、聞く人の姿勢しだいで理解はまったく異なるとイザヤは言いました。聞いても聞こえないことになるし、見ても分からない状態が起きると予告していました。イザヤが予告していた通りのことが今、弟子達の目の前で起きていたのです。



3、実をむすぼう

ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイ13:18~23)

たとえには霊的真理が隠されています。たねまきのたとえは、農業の話ではなく、実を結ぶ人生を過ごすための秘訣が語られています。

種とは、神のことばです。
道ばたにまかれた場合は、主イエスの言葉を聞いても、拒絶する人、無関心でいる人のことを意味します。これでは、信じる心が生まれません。
岩地にまかれるとは、主イエスの言葉に少し関心を示し、わずかに芽を出す人です。こういう人は、根がないので、困難や迫害でつまずくので、信仰の実を結べません。
いばらの中にまかれた種とは、みことばを聞いてはいるのですが、この世の思い煩いや富の誘惑に負けて、実を結ばないで終わります。主イエスよりもこの世の栄誉を求め、正義や愛を選ばすに嘘や不正や妥協を選んでしまうので、中途半端な生き方になり、罪に負け、実をむすべません。
「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで」良い地に落ちた種は豊かな実をむすびます。みことばを悟るとは、難しい悟りを開くという種類のものではなく、シンプルなことです。みことばを聞いて主イエスを信じること、そして、みことばを聞いて実行することが、みことばを悟ることの中身です。そういう人は、日常生活で祝福を受け、実をむすぶ人になります。

今日のあなたの心は、どの状態ですか。道ばた、岩地、茨、良い地?

主イエスは、今日も、あなたに種をまいています。毎週の礼拝で、しっかりとみことばを受け止め、信じ、生活で実行しよう。朝、一人で神の前に出て、聖書を読み、その日に主がまいて下さるみことばの種を受け取りましょう。そういう人の人生は実をむすぶ人生になります。

私たちが結ぶ実は三層あると私は思います。第一は、信仰の実です。信仰を持つことが実りです。試練や誘惑に負けずに信仰を維持し深めることは実りです。第二に、御霊の実です。品性が変えられ、キリストのように変えらていくことは、人生の実りです。周囲の人に笑顔をもたらします。第三に、神の国建設に携わることが実りです。正しい仕事、誠実な業務、お客様の利益を優先する製品作りやサービス、聖い態度、愛を届ける姿勢。神の国の建設をすることにより、神の栄光をあらわすことができます。

ワランス・ハートレイは、イギリスに生まれました。父親は、メソジスト教会の聖歌隊の指導者で日曜学校の校長でした。ワランス自身も聖歌隊の一員となり、音楽を自分の仕事としました。マリア・ロビンソンというフィアンセの女性と将来を語り合い、世界最大の旅客船の楽団で指揮をすることを誇りとしていました。
1912年4月15日の夜、タイタニック号は氷山とぶつかり、船体が傾き始めました。混乱する甲板に出てハートレイは演奏を始めました。人々の心を静め、勇気を与えるために。深夜2時20分、巨大な船が沈没するまで1時間30分、ハートレイは8人の楽団と共に音楽をかなで、最後は「主よみもとに近づかん」の賛美歌を演奏し、海に散っていきました。生き残った人達は、みな、ハートレイたちの演奏を生涯忘れませんでした。
彼の人生は短いものでしたが、豊かな実を結びました。

あなたも、実を結ぶ人生を送りましょう。道端、岩地、いばらの地にならず、良い地になりましょう。

「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。」


→あなたの番です
 □主イエスは、あなたに種をまいている
 □みことばを素直に聞いて、信じよう
 □みことばを実行して、実をむすぶ人生にしよう