マタイ12:38~45 あなたの心に触れたいイエス

 主イエスは、強烈なストレスにさらされる中でも、心折れそうな人々に愛を注ぎました。悪意ある質問に答える時すら、パリサイ人に真理を悟らせようとし、悔い改めのヒントを何度も投げかけました。
 今回も、一人のかたくなな心をもつパリサイ人に主イエスは真摯に語られました。


1、悪い時代になった

そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。(マタイ12:38~39)

 パリサイ人の一人が「先生」と語りかけました。主イエスを殺そうとしている人の言葉なので、これは嘘で偽善です。尊敬心のない者が「先生」と呼ぶのは侮辱です。

 主イエスの数々のいやしを目の前で見て来たのに、しるしが見たいと言い張るのです。目が見えず、口がきけず、悪霊につかれていた人のいやしも見ているのに、それでも不十分だというのです。救い主の証拠となる奇跡ができるはずだというのです。

 悪い時代になってしまった。悪い人々が増えてしまった。姦淫の時代だ。邪悪な人々だ。主イエスのいやしによって、あれだけ多くの人の流した感謝の涙に心が動かされないでいる。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています」と主イエスは嘆きました。

 主イエスは、何が問題点なのかを瞬時に見抜きました。しるしが提示されるか、されないかが問題ではない。パリサイ人が、最初から信じるつもりがないことが問題なのです。誰かの証言を聞いても、何かの事実を見ても、心が閉じているのです。目の前で主イエスがガリラヤ湖の水の上を歩いても、きっとこう言うでしょう。悪霊の力で歩いたのだと。

それで主イエスは二つの話をしました。預言者ヨナの話しを聞いてニネベの人々が悔い改めた話。ソロモンの話しを聞きに来た南の女王がその言葉に驚き、感嘆した話です。しるしが起きるか起きないかでなく、大事なことは聞く人の心の柔らかさ、謙虚さなのだというのです。


2、ニネベと南の女王

ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。(マタイ12:40~42)

 この時代からざっと700年前の出来事でした。アッシリアの首都ニネベは、罪深く邪悪で神に逆らう町として有名でした。三日三晩、大魚の腹の中で生き延びたという預言者ヨナの話はニネベの人に大きなインパクトを与えました。今のままでは神に滅ぼされるという警告は、町の人々の心をとらえました。預言者ヨナの体や顔や髪の毛に、魚の中で消化されかけた後遺症がみられたのかもしれません。大魚の中で生き延びた地獄のような体験のリアルさを聞いて、人々は身の毛もよだったかもしれません。
 邪悪なニネベの人々も、預言者ヨナが語る神の言葉を聞き、ヨナの体験、生き残ったしるしを見て、心から悔い改めたました。ニネベの人々は、パリサイ人とは違って、柔らかい心を持っていました。

主イエスはヨナよりもはるかにすぐれた方です。今、主イエスは、病人をいやし、神の言葉を語っていました。ニネベの人なら、主イエスを見て、すぐに悔い改めたことでしょう。心をかたくなにしたパリサイ人がしるしを見せろと叫び続けるなら、さばきの日にニネベの人々がパリサイ人を罪に定めると主イエスは語りました。

この話の中で主イエスは、十字架で死んで三日後によみがえると、そっと予告されています。実は、十字架と死と三日目のよみがえりこそが、唯一のしるしなのです。

 もう一つ。ヨナの例と似ているのですが、旧約聖書の出来事を主イエスは取り上げました。イエスさまの時代から約1000年前のことです。
ソロモンがユダヤの王だった時、南の国、シェバの女王が噂を聴いてはるばるやって来ました。女王は、ソロモンの語る知恵の言葉に魅了されました。また、王の宮殿や従者の姿、神殿や礼拝する人々を見て圧倒されました。女王は「あなたの神、主はほむべきかな」(第1列王10:9)と神をたたえたのです。
 さばきの日が来たら、シェバの女王が、心の閉じたパリサイ人たちを厳しくさばくだろうと主イエスは告げました。
 
 南の女王の関心は、ソロモン王の知恵の言葉でした。おそらく、自分こそ知者だと誇っていたからこそ、賢者の誉れ高いソロモンに会いたかったのです。いわば、知恵の道場の門前破りです。われこそは真の知者なりと言いたかったのでしょう。神の知恵に満ちていたソロモンにまったく歯が立ちませんでした。高慢な女王に見えても、ソロモンの言葉を低い心で聞く謙虚さを持っていたのです。かたくなな心で、目を閉じ、耳を閉じていたパリサイ人とは正反対の姿勢でした。

 邪悪なニネベの人も、権力者で知者の女王も、柔らかい心で言葉としるしを受け入れました。自分の非を認め、神をたたえました。



3、7つの悪霊を引き連れて

汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」(マタイ12:43~45)

 最後に、悪霊を追い出してもらっても、その悪霊は7つの悪霊を連れて来て支配するというたとえを主イエスがされました。かたくなな心を貫くなら、同じめにあうと言われたのです。邪悪な人はもっともっと邪悪になる。「初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです」

 これは、主イエスの警告です。主イエスを殺したいパリサイ人であっても、しるしを見せろと悪態をつく男であっても、そのままではコンクリートのような心になる、邪悪な人になってしまう。心の在り方をかえてみようと、彼の心に触れようとしています。

 宗教哲学者のマルチン・ブーバーは、真実な出会いによって人は新しい人になると述べています。主イエスと心の深い部分で出会うことができれば、私たちは一瞬手前の自分とはまったく異なる私になれます。主イエスは、あなたの心と出会いたいと願っています。

ひるがえって自分の姿を見つめましょう。神があなただけに示して下さったしるし、つまり、神しか為し得ない出来事があなたの人生にありませんか。この一年の間に、神は確かにおられたと思えた出来事がありましたか。ここ1ヶ月の間に、主の助けや守りを体験しましたか。
また、預言者ヨナが語ったように、ソロモン王が神について語ったように、神についての言葉を聞いて納得したり、心に平安が来ませんでしたか。

主イエスの行動を見、主イエスの言葉を聞いて、謙虚に主イエスを受け入れましょう。

「ヨナよりもまさった者がいるのです」(41節)

→あなたの番です
 □謙虚に見たり聞いたりする心があれば、大切なものが見える
 □悪意ある人を思いやる主イエスの姿