「神の栄光のために」 第1コリント10:31

 「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(第1コリント10:31)

 人は二つの種類に分けられる。自分の欲望を追求する人と、もう一つは、欲望を追求する人に振り回される人。あなたは、どちらですか。

 おとなしそうな真面目サラリーマンも、自分の欲のためなら暴力でも詐欺でも厭わないやくざ者も、内面はそんなに変わりません。
 アメリカは、いわゆる「世間さま」が存在しないので、日本でできない事もここではできます。一山当てて金持ちになれる場所です。

 さて、欲望追求の人生で何が残りましたか。そこに深い満足がありますか。あなたの人間性は深まりましたか。身近な家族はどうなりましたか。
 人の欲望に振り回された人はどうですか。心に憎しみが渦巻いていませんか。結局あなたも、欲望追及を邪魔されて怒っているだけではありませんか。


 聖書は第三の生き方があると教えます。それは、神の栄光を現す人生です。

 今まで、4回ほどに分けて、信仰の礎シリーズを話してきました。人格を持ち、無限で雄大な神は、私たちをお造りになり、私たちの欠点や罪を知った上で決して見捨てない方だと話してきました。

 1563年に出版された『ハイデルベルク信仰問答』の最初の質問は次のようなものです。「生きている時も、死ぬときも、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。」
 答え:「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。<中略>わたしが、心から喜んで、この後は、主のために生きることができるように、して下さるのであります。」

 神に作られ、神に愛され、神によって救われ、神のものとされた者は、神のために生きると、教えています。実に美しい言葉ですね。

 神のために生きるというのは、どういうことでしょう。私は次のように考えています。神に使ってもらいやすいように、自分を差し出す生き方です。

 完全に自分を明け渡したかどうかで自分を吟味し続けるのではなく、不完全でもいい、罪深くてもいい、今のあなたを差し出す生き方が肝心だと思います。使ってください、という姿勢でいることです。「今がそのときだ」、「今、神が求めておられる」というチャンスが分かってきます。そのとき、実際に自分を使ってもらいましょう。それが、神のために生きることです。

 クリスチャンは、エビに似てるなって、思うんです。だって、「いえいえ、私には何もできません」と謙遜しすぎて、後ろに下がってばかりいるのです。だからエビみたいです。むしろ、カタツムリでいいんじゃないか、と思います。後ろに下がるカタツムリって、見たことないでしょ。歩みは遅くても、与えられた賜物を主にささげて、前にでましょうよ。使ってくださいとささげましょうよ。

 今日配布したプリントを見てください。以下のように、神のために生きることが人間にとって合理的で、最善の生き方だと書いてあります。

神の栄光のために造られた
わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。(イザヤ43:7)

神は人を探している
「主は御目をもって、あまねく全治を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(第2歴代誌16:9)

主イエスも父なる神の栄光を求めた
イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰すなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与えられる方は、わたしの父です。」(ヨハネ8:54) 

自分を神に使っていただこう
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)

私たちの体は神のもの
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(第1コリント6:19)

 さあ、あなたの体を神に使ってもらいましょう。そこに、本当の喜びと満足がきますよ。