「なぜ私が」 ヨブ記1:1〜22

<正しい人がなぜ苦しみに会うのか>、これがヨブ記の基本テーマです。
 
「なぜ私だけが苦しむのか」。人は人生で何度もこの言葉を口に出す。なぜこんなに苦しむのか。何も悪いことはしてないのに。なぜ災いに巻き込まれるのか。
ある種の宗教は、あなたが先祖を大事にしなかったから災難に遭ったと説明します。ある人は、あなたの心がけが悪いからだと言いますます。はたして、そうでしょうか。
 
これから、ヨブ記を何度かに分けて学んでいきます。<なぜ私が?>の質問に主がどのように応えてくださるかを見ていきましょう。
 
ヨブは、どうやらユダヤ人ではなく、エドムの人のようです。1節にあるウツという場所は死海の北東部、アラビヤ砂漠との境界線付近だったと学者は考えます。ヨブ記では、出エジプトの出来事、律法、預言者、ユダヤの王などについて言及しなことから、ヨブの生きていた時代はアブラハムと同じ頃、あるいはその 少し後と考えられます。
 
ヨブの人柄は、1節、5節、8節に顕著です。
「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」(ヨブ1:1)
 
ヨブを紹介するとき、聖書はその財産の豊かさに最初は触れず、ヨブの4つの内面性を説明します。潔白、正しさ、神を恐れる心、悪から遠ざかる姿勢。神から見ても非の打ち所のない人物であると8節で明記されています。
 
神に敵対するサタンは、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。」(1:9)と疑問を呈します。ヨブが正しく潔白に生きているのは、神が物質的な繁栄をヨブに与えたからだと指摘した。信仰の支えとなっている繁栄を奪えば、ヨブは神をのろうとサタンは断言、神はサタンに許可を与えます。
 
この結果起きたことは悲惨の一言でした。一日のうちに、7人の息子と3人の娘が死亡しました。その上、すべての財産が奪われたり焼かれたりしたのです。一文無しで、子供なしです。積み上げてきたものは、すべてなくなりました。
ヨブは、この事実を知らされ、悲しみの表現として上着を裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、以下のように語りました。
 
「私は裸で母の胎から出て来た。
また、裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)
 
ケアホーム職員が受けた講習についての文章を『羅府新報』に書きました。人生は大切なものを失うプロセスです。配偶者を失い、子供を家庭の中から失い、名誉や地位を失い、健康を失い、味覚も聴力も視力も無くし、記憶も失っていくのです。獲得することだけが幸せという偏った価値観では、不幸になるだけです 。
 
現代のアメリカや日本では偏った価値観した教えません。それは<坂を登る>価値観です。勉強して、良い学校に入り、有名企業に就職し、立派な家に住み、早めにリタイアし、高級ケアホームに入り、(最後は超豪華墓地に入る)。
集めること、所有すること、多くなること、強くなること、高くなることばかりを強調する価値観には歪みがあります。
人生には<坂を下りる>経験が必ずあります。分けること、少なくなること、さびしくなること、弱くなること、忘れられること、そうした中にも人の幸せが隠れているのです。
 
捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。(伝道者の書3:6)
 
ヨブは生まれた時の自分の姿に思いを馳せました。あのとき、裸だった。何も持っていなかった。分娩室で取り上げられたとき、マスターカードとチェックブックを持っていた赤ちゃんなんて聞いたことがありますか。ヨブは自分が死ぬときにも目をやりました。そうさ、何も持っていけないんだ。地上で人間が所有で きるものは、すべて神の許しと守りの中で享受できるもの。裸、つまり、命と体。それは神から頂いた最高に価値あるもの。ヨブはその裸を感謝しました。
 
ヨブの信仰は、神から物質的な繁栄をもらったから成り立つ<ご利益信仰>ではなかった。神が富や財産や子宝を与えてくださる時は、与え主である神に感謝する。神が、繁栄や子宝を取られるときは、神の深いお考えがあることに信頼を置き、神に愚痴をこぼさない。神は自分の創造者、神がおられる事自体が喜びの 源、神と共に歩めること自体が真の幸いと認識していました。物質や金を手に入れる生き方ではなく、命の源である神とつながって歩めることが最大の幸せなのです。そういう人は、神に与えられた財産を上手に使い、神のため人のために生かせる生涯になる。そして、坂を下りる経験の中でも主をたたえることができるのです。
 苦難を通ったヨブだから語れた21節の言葉です。この言葉で多くの人が慰められてきました。
 
 横田早紀江さんの長女めぐみさんは、昭和52年(1977年)11月15日に行方が分からなくなりました。悲嘆にくれる中、めぐみさんと同学年の娘を持つお母さんから、「聖書を学ぶ会」に誘われ、聖書をもらいました。悲しみの中でこんなに分厚い本をどう読んだらいいのかと最初悲嘆にくれましたが、ヨブ記を勧められていたので開いてみました。そこで目にとまったのが21節でした。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
 「はじめて深呼吸ができ、久しぶりに空気がおいしく思えました。私は、むさぼるように聖書を読み始めました。今まで聴いたことのない、魂に深く、それも痛みをもって心地よく染みていくこの本は、なんという本でありましょうか」と早紀江さんは述べています。
 
 あなたの人生で、必ず何かを失う経験に出会います。そのとき、主を見上げよう。坂を上りながらも坂を下りながらも主を見上げましょう。そして、残された自分の命をどう生かすか。よく考え、よく祈り、静かに行動に移しましょう。
 
「主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。」