「私たちに似ている神」 創世記1:1~5

 日本人が考える神とは以下の3つに分類できます。
1)白い髭のおじいさん → 役に立たないおひとよし。
2)エネルギー → 宇宙の源。パワー。非人格的な神。 
新興宗教に多い考え。この絶大なパワーを自分のものにするのがその信仰形態になる。この種の神とは、人間が利用したり、操作できるもので、自己実現の道具に等しい。エネルギーに対する祈りは、精神統一、自己暗示、恍惚状態によるやる気の高揚につながる呪文に近くなる。
3)運命 → 冷たい運命。人間は荒ぶる神に逆らえない。だから、怒りを静める儀式が信仰形態となる。人間に残された道は、運命をあきらめるだけ。

 以上のように神しか、日本人は想定できない。だから、神は取るに足らない存在となり、信じるに足る相手ではなく、結局は神はいないと結論するしかない。
 
 聖書に示されている真の神は、そいうお方ではない。創世記を見よう。創世記を単なる神話や昔話として考えては、大切な宝を失うことになる。

 1~5節を読もう。神が何をなさったか良く見よう。神がなさったことから、神がどんなお方か推測することができる。

初めに、神が天と地を創造した。
地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。
神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。
神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。

 神は宇宙を創造する方だ。つまり、デザインする力がある。無から有を造り出す独創力を持っておられる。はかりしれない知恵を持っておられる。

 宇宙に目を向けよう。1光年は9兆4600億キロメートル。太陽系は銀河の中心から3万光年離れている。太陽系が銀河系を1周するに2億年かかる。そして銀河系自体がうみへび座方向に1日に5000万キロ移動している。銀河系の直径は10万光年。現在観測できる宇宙の果ては150億光年先まで。その先は 光と同じ速度で遠ざかっているため 測定できないという。なんと遠大な宇宙だろう。神は、このすべてを造られた。

 今度は目を小さなものに向けてみよう。人間の体内にある血管は伸ばすとどのくらいになるか。答えは10万キロ。つまり地球を2回転半の長さ。これも気が遠くなる世界だ。酸素を運ぶ動脈は皮膚から深いところにある。赤血球の形は穴のないドーナツ形。表面積が球体などより30%も多い。赤血球の大きさは1ミリの1000分の7。骨髄で作られ寿命は120日。血管の95%は、目に見えない太さの毛細血管。血の中には13種の血液凝固因子あり。出血すると、血小板がこわれ、13種の因子が混ざるきっかけを与え、血が止まるようにできている。

 神は、宇宙のような大きなものから、血管や血液など小さなものまでお考えになり造られた。人間は偶然に存在するのではない。だから人生に意味がある。神は私たちを造られた。そして、ご自身に似せて造られた。

 マルチン・ブーバー(1978~1065)というオーストリア生まれのユダヤ人哲学者が『我と汝』という本を書いた。ブーバーによれば人間をめぐる関係は二つしかない。
<我と汝>
<我とそれ>

 人間が自分を人間と意識できるのは、相手があって初めてできること。自然やモノとの接触は人間の自覚をうながさない。あなたと呼べる相手との出会いが人間には不可欠だという。

 エネルギーとしての神、非人格的存在の神では、人間が利用するだけで、欲望肥大だけをまねくだけ。 けれども、あなたと呼んでくれる存在に出会うとき。人間は、はじめて人間になる。

 私は妻と出会って様々なことに気づいた。それまでは、男が優位で女は劣ると思っていた。それは男の傲慢に過ぎなかった。妻は家庭の中で、「ありがとう」を自然に言う人だった。私が育った家族の中で、私はそんなことは言わなかった。「ありがとう」との出会いは大きく言えば人生を変えた。

 神はあなたを呼んでいる。あなたも、人格的で無限の神から語りかけを受けている。「神よ」とあなたが応答するとき、あなたは本当の自分に気づく。そして、神との祈りが自然に生まれる。

 神が人間に似ているのではない。僕らが神に似ているのだ。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)
 あなたも、「神よ」と心を込めて語りかけよう。