「キリストのために生きる」 ピリピ1:20、21

 新年あけましておめでとうございます。

 悔いのない人生を送りたいと、思いませんか。年の初めは普段考えない大きな事を考えましょう。ドーンと大きな視点で自分を見つめましょう。

 ハワイではどんな家にもアリが入ってきます。高層コンドミニアムにもアリは来ます。ある日私は、透明なコップの縁にアリが一匹いるのに気づきました。アリは左周りに歩き出し、出発地点に戻っても左に左に歩き続けました。いつまでたっても回り続けました。毎日の生活にだけ追われている人はこのアリと同じです。そこから抜け出しましょう。

「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、
いつものように今も大胆に語って、
生きるにしても、死ぬにしても、
私の身によって、
キリストのすばらしさが現されることを求める
私の切なる願いと望みにかなっているのです。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」。
(ピリピ1章20、21節)

 パウロは、自分の体を通してキリストの素晴らしさを現すために生きていました。ですが、パウロのこのときの状態を考慮すると、よくも言えたと感心します。この時、パウロは牢獄にいたのです。
過去を振り返ればクリスチャンを迫害し死に追いやった暗い過去があります。現在は牢獄の中にいて、パウロの素行を疑問視する向きもありました。将来はというと、何の保障もなく死刑の可能性もありました。
 そのパウロはそんな「自分の身」をもってキリストをあかししたいと願っているのです。突き抜けています。牢獄の天井を突き破るくらい、目が天に開いています。貫く心棒がはっきりしています。このパウロの言葉を読んだ多くの人が2000年間励まされているのです。

 1964年の東京オリンピックからもう40年以上時が過ぎていますが、私が記憶に残っている陸上選手の名前があります。カルナナンダ選手です。
 1万メートル決勝に出場したセイロン(現在のスリランカ)の選手です。400メートルのトラックを25周し、有名選手は30分を切ってゴールします。すべての選手がゴールしましたが、カルナナンダはまだ走っています。苦しそうに走ります。1周したときには、7万5千人の観衆からあざけりの反応が出ました。2周しました。まだゴールになりません。3周して、あきらかにラストスパートをかけ、全力で走ってゴールしました。観衆の空気はがらりと変わり、感動と声援がスタジアムを包みました。
 カルナナンダ選手は、インタビューに答えてこう言いました。昨晩高熱が出ましたが、力を振り絞って走りました。娘が大きくなったら、父さんは東京で頑張ったと言ってやりたい。28歳、ゼッケン67。

あなたもキリストのために走ろう。この世界の基準なんてたいしたことはない。カルナナンダ選手も、勝利のために走らなかった。記録のために走らなかった。故郷にいる家族と娘のために走ったのです。
僕らもキリストのために生きよう。キリストに再会するとき胸をはって語れる人生を送ろう。「いつか、そうなりたいね」と言っているなら、左周りのアリと同じになる。悔いのない人生を送りたいなら、今、この瞬間からそれを始めればいい。
キリストのために、という生き方を始めたら、誤解されるかもしれない。笑われるかもしれない。損するかもしれない。それでもいい。キリストのため、具体的なアクションを始めよう。