「仲裁者」 ヨブ記9:1~35

 今日は、無力感について考えましょう。

 象は信じられないほど大きな力を発揮しますが、サーカスの象は杭につながれただけで静かになるといいます。それはなぜでしょう。鎖で杭につながれた小象時代、いくら暴れても逃げ出せないと学習したからです。それで、簡単に引き抜けるはずの杭につながれても、あきらめています。
多くの人が「サーカスの象」になっています。無気力におおわれています。

 ヨブ記8章では、了見の狭い学校教師のようなビルダデが意見を述べ、ヨブはその言葉を聞いて落胆しました。そんなこと、言われなくても知ってるよと1節で言い捨てました。ヨブは9章全体で神に反論しています。最初は間接的に、27節からは直接的に、神に反論しました。けれども、ヨブの心を支配していたのは圧倒的な「無力感」でした。

 ヨブの無力感を4つのフレーズでまとめました。

1、神は力が強く、とうてい太刀打ちできない。(3~12節)
「たとい神と言い争おうと思っても、
千に一つも応えられまい」(3節)
ヨブは神の創造の偉大さに思いを馳せ、おうし座、オリオン座など天体と造られた神に言及するが、その目は虚ろになります。

2、神が決めたことには逆らえない。(13~19節)
「神はあらしをもって私を打ち砕き、
理由もないのに、私の傷を増し加え
私に息もつかせず、
私を苦しみで満たしておられる」(17、18節)
 災難は神から来たのではないが、ヨブは神のせいだと誤解する。

3、神に自分の潔白さを主張しても、相手にしてもらえない。(20~31節)
「たとい私が正しくても、
私自身の口が私を罪ある者とし、
たとい私が潔白でも、
神は私を曲がった者とされる」(20節)
 ヨブは、22節のように、神の前では悪者も正しい者も結局同じ災いを受けるに過ぎないと無気力を加速させている。

4、神とヨブの間に、仲裁者がいない。(32~35節)
「私たちふたりの上に手を置く仲裁者が
私たちの間にはいない」(33節)
誰か、私を助ける人はいないか。神の前に立ってくれる人がいないか。私を弁護する人がいないか。これがヨブの叫びです。救い主を求める悲痛な叫びです。


 無力感に捕らわれている人は普通、二箇所にしか目が行きません。第一は、直面している問題。もうひとつは、弱い自分です。神を信じている人の場合は、もう一点が加わります。神をゆがんで見てしまうのです。色眼鏡をかけて神を見ます。不可能を可能にする神を忘れます。思いやり深い神を忘れます。

 理解してくれる人との接触がないと、人は孤独感が深まります。最後は、圧倒的な無力感に支配され、固まってしまいます。

 一人の日本人婦人がアメリカでポリスに呼び止められました。車の中から、「何か、私が悪いことをしましたか」と尋ねると、「あなたは、最低速度違反だ」と言われチケットを切られました。遅すぎるというのです。
 道路工事のため、道路には赤いコーンが置かれ、車線が規制されていたので、ゆっくり注意しながら走っただけでした。憤懣やるかたなしですが、お上には逆らえません。無力感でいっぱいになりました。
職場の同僚に話すと、「ノット・ギルティー」と主張して、裁判で戦ったらいい、「私も応援するよ」と励ましてくれました。現場の写真を撮り、交通裁判所に出廷する準備を始めました。クリスチャンの仲間に話して祈ってもらいました。
 祈って、祈って、ドキドキしながら当日を迎えると、法廷内に例の警察官がいます。やがて自分の番になりました。ふたを開けてみると、相手側のポリスは、「手元に資料がない」と説明、ポリスが争う意思を撤回したと判事は判断、女性に無罪を告げました。いわば不戦勝の勝利です。ハレルヤです。主をたたえ、感謝しました。

 あなたには、今日、無力感がありますか。そこから出る道筋を紹介しましょう。

1、 勇気をくれる人に相談する。
2、 小さなアクションを今日から始める。
3、 あなたの横に立つ主イエスに信頼して、勇気を出す。

「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出してなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。』と言われた。」(使徒23章11節)
主イエスがそばにおられる、それが勇気の源です。

 仲間に話そう。主イエスに話そう。小さく始めよう。勇気を出そう。主イエスを信じて進もう。あなたも無力感から解放されます。